最近のミヨ子さん(ビデオ通話5-3古い記憶)

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。たまに、母の近況をメモ代わりに書いている。

 前々項からは、今秋の帰省を終えてからのビデオ通話の様子を記している。当たり障りのない会話に続き、最近のことを話題にしてみた。その間にも、母の記憶はときどき昔に飛ぶ。

 末の妹すみちゃん(叔母)の苦労話をしているときも、唐突に
「手洗ヶ水(郷里の地名)に行くときも、あんたをハル婆さん(姑。わたしの祖母)に預けてね。兄ちゃん(長男のこと)は、母ちゃんたちが連れていったかねぇ」

 手洗ヶ水はわが家のミカン山がある場所だ。正確にはミカン畑だった山がある場所、かもしれない。舅の吉太郎さん(祖父)が買ったこの山を、戦後の果物消費推進と果樹拡大の政策に乗った形で開墾して、ミカン山に仕立てたことは「開墾」で詳しく書いた。そのときの苦労が原因で、母は最初の子供を死産したことも(「四十四  初めての子供」)。

 そこまで苦労して切り開いたミカン山だったが、農業政策と消費の変化に伴いほかの作物に切替え、のちには脚を踏み入れることもなくなった。
「ねぇ、お母さんも苦労して開墾したのにね」とわたし。
「ミカン山にしたのもちょっと遅かったからね…。そのあとまた別のことを始めたし」と母。
「そうだね、スイカとかね」

「父ちゃんは外ばっかり行っててねぇ。(田畑に出るのも)弁当を持って一日中いなかった。それに、人に何か頼むことが苦手でね。誰かに頼むくらいなら一人でやったほうが速い、っていう人だったから。その分苦労したんだよね。
 ミカン山のことも、S(集落名)のなんとかいう人と――誰だったかね、忘れたけど――話し合わなきゃいけなかったんだけど、結局一人でやってね」

 ミカン山にした山林は、山ひとつ全部を祖父が買ったわけではなく、所有者が分かれていたらしい。車が通れる道を山に通したときは、所有者たちが協力して道をならしりもした。
「ミカン山には、まだ行けるかしらね」とわたし。
「山には入れるでしょうよ。道の先のほうには他の家のミカン畑もあるんだから。でも、ミカン畑の中にはもう入れないだろうね。草も木も生い茂って、どうなっていることか…」と母。

 じっさいには、ここに書いたようなスムースな会話だったわけではないが、母が言いたいことは概ねわかったし、行きつ戻りつしながらも、会話は成立した。それは、わたしが郷里の地名や、自分は経験していない「昔のこと」も、家族や周囲の人から聞いて知っているためかもしれない。少なくとも母の昔話にかなりの程度つきあってやれる。

「長くしゃべったね。ご飯の支度をしなさい」
と母が促す。そして
「お父さんとは仲良くね」
「お父さん」とはこちらの家人のことだ。名前が出てこないとき、母はこういう。子供のことを心配する――それは親の習性みたいなものだろうか。そんな人がこの世にまだいることを、素直にありがたいと思いながら、スマホ画面のオフボタンを推した。

※直近の帰省については「続・帰省余話」17

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?