文字を持たなかった昭和389 介護(8) 姑②退屈

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 最近はミヨ子が嫁として仕え最期を看取った舅と姑の介護の様子を、「介護」というタイトルで書いている。 昭和40~50年代のできごとである。

 介護という概念すらなかった「当時の状況①」「当時の状況②」に続き、舅・吉太郎(祖父)のお世話の様子を綴った(舅①舅②)。前項からは姑・ハル(祖母)のお世話について述べることしにて、まずハルの簡単なプロフィールと人柄について書いた。昭和40年代の終わり、それまで見られなかった様子がハルに起きつつあったことも。

 当時ハルは80歳を超え、屋敷内の畑を見回ったり、季節の保存食づくりなどの、ほんの軽作業の部分を手伝ったりする以外はこれと言ってすることがなくなっていた。ミヨ子たちは農作業に忙しい。ミヨ子たちの長男、ハルにとって初孫の和明(兄)は、外での友達づきあいと、小学校から始めた剣道の部活で忙しく、ハルの相手は務まらない。下の孫の二三四(わたし)は小学高学年から中学へ進もうという頃で、幼い頃と違い、おばあちゃんのお話をおもしろがって聞く時期は過ぎていた。

 つまりハルにとって、家族と同居していても一人になりがちな時間が増えていた、と言える。

 この頃から、ハルが敷地の入口あたりで手持ち無沙汰にしているのを見かけるようになった。屋敷の敷地は東西に長く、中ほどに建屋があるのだが、西側にある道幅の広い坂に面した入口を「西の入り口」と呼んで、正門のように扱っていた。ここにある墓地は、ミヨ子たちの親族とは関係のない、ただし同じ集落の別の一族のものだった。墓地は道から1メートルほど高くなったところにあり、そこへ上がる通路の段々は、腰かけるのにちょうど具合がよかった。

 とは言え、よそのお宅の土地、まして墓地なので、その辺りで「滞留」することはふだんほとんどなかった。そこに、ハルが座っている姿がしばしば見かけられるようになったのだ。

 夕方、二三四が学校から帰ってきて気づき、「ばあちゃん、うちに入ろう」と声をかけると「あら、ふーちゃん、いま帰り?」と応える。農作業から帰った二夫やミヨ子が気づいて、家に連れていくこともあった。

 どのみちほぼ家の敷地だし、もともと元気に歩き回っている人だから、気分転換に見晴らしのいい場所で時間つぶししているのだろう、ぐらいに家族は思っていた。子供(孫)たちも生長し、帰る時間もだんだん遅くなりつつあったので、
「留守番するのも退屈で、西の入口でみんなの帰りを待っているのかねぇ」
と話すこともあった。

 闊達、というより勝気な人柄で、聡明でもあるハルだったが、新聞を読みこなすほど文字を読めなかった。テレビを自分からつけて視る習慣はなかったし、防災無線を兼ねた有線ラジオは、決まった時間しか放送されなかった。たしかに、「留守番するのも退屈」だろうと、誰もが思っていた。

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