文字を持たなかった昭和471 困難な時代(30)志望校
昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。
あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、家庭内の雰囲気は重く気づまりだったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。
そうこうするうち娘の二三四(わたし)は高三になり、卒業後の具体的な進路を考える時期を迎えた。二夫(つぎお。父)もミヨ子も、娘には家から通える範囲での就職を望んでいたから、二三四は地元の公務員試験を受けてはいたが、大学受験を諦めきれずにいた。なにより、二三四の本音はただ「自立したい」というものだった。
卒業への年が明け、二三四は「共通一次試験」を受けた〈199〉。自己採点の結果は思ったよりよかった。欲が出る。
「二次試験も受けさせてほしい。だめだったら就職するから」
二三四の願いに二夫たちは困惑した。大学へ出してやるだけのお金がないからだ。
家の中の雰囲気は以前にも増して暗く重くなった。親のいうことをよく聞いていた自慢の娘が、わがままを、しかも強硬に主張してくると、二夫たちは感じた。
そもそも、近所にも知り合いにも大学まで行った人はほとんどいない。大学へ行くとはどういうことか二夫たちには想像すらできない。それよりも地に足をつけて、それほどあくせくしなくても確実に給料をもらえて子供を産んでも働けるような職場に入り、地元の男性と結婚して穏当な人生を歩んでほしい、と二夫たちは願っていた。何より、就職してくれたら家計も少しは楽になる。
だが二三四は「力試ししたい」の一点張りだった。二夫はとうとう折れて「地元の国立大学なら」と妥協案を出した。
ところが驚くべきことに、二三四は「わたしが勉強してみたい学科はそこにはない」と言い出した。聞けば福岡にある公立大学ならある、それでも「家からいちばん近い」という。
「そんなところへ行かす金なんか、ないぞ」
二夫は激怒した。
〈199〉二三四の共通一次受験時のエピソードを「番外(受験と懐炉 前編)(同 後編)」で述べている。
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