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ヤングケアラーのその後①|生きづらさ・トラウマとの戦い【大学時代】

2022年6月26日の記事を加筆・訂正しています。更新2024.6


■母のケアが終了してから

5歳の頃から始まった母(精神疾患)のケア生活は、両親の離婚と私と母の絶縁により終わりを迎えました。
私が高校生、17歳の時でした。

「もう終わったんだ」「やっとあの母親から解放された」
と一区切りついたような気持ちはあまりなく、ケア終了後も日々が淡々と過ぎていったような気がします。
今振り返れば、ケア終了後も食事、洗濯等の家事をする私の役割は変わっておらず、「ケアが終わった」と日常の中で実感することがなかったからかもしれません。

そんな日々を過ごすうちに、ケアが終了してから約1年半後、私は大学に進学しました。


■楽しいのに、どこかもやもやする大学生活

大学に入学してからは、幸運なことに気の合う友人達に恵まれ、充実した大学生活を送っていました。

しかし、友達と一緒にいて楽しいはずなのに、なぜか疲れてしまったり、変に気を使いすぎたり、本当の自分を見せることができなかったり‥‥。
また、母親の悪夢をみたり、何を考えるにも母親の存在がちらつくようになりました。
母親と離れて毎日充実しているはずなのに、心の底から日々を楽しめず、常にもやもやしている自分がいました。


『ずっと母にとらわれているような気がする‥。もやもやするのは過去の経験が影響しているのかな?』

『いや、何でも過去のせいにしたらいけない。きっと元々の性格のせいだ』

『でも、ずっと過去の経験に支配されているような自分もいる・・・』

もやもやに対する答えは、考えれば考えるほど見つからず、結局生きづらいのは自分の性格のせいだと、ずっと自分を責めて続けていました。

しかし、時が経った今振り返ると、ケアラー時代の経験が当時の自分に与えた影響は、想像以上に大きかったのではないかと思います。

そこで今回は、当時の生きづらさについて、ケアラー時代の経験をふまえながら、自分なりに考察したことを書いていきたいと思います。


■対人関係の苦悩

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◎相手の顔色を窺う癖が身にしみついていた

幼少期から母親の顔色を窺う生活だったからか、大学生活でも相手の顔色を常に窺う癖がついており、相手の表情や話し方からわかる感情にとても敏感でした。
そのため、相手が私に『言ってほしい言葉』や『やってほしいこと』が自然とわかりました。

周囲からは「気がまわるね」と褒めてもらっていて、当初は私自身もそれを自分の長所として捉えていました。
しかし、常に相手の一挙一動に神経を張っているような状態だったので、自分で長所とは捉えていても、実際は気疲れいました。

当時は「気疲れしている」という自覚はなく、ただ「人といると疲れるな」という感じで、このもやもやの原因を見つけられずにいました。

仮に「気疲れしているんだ」と自覚できていたとしても、相手の顔色を窺う行為自体が自分の中で自動化されていて、やめようと思ってもやめられるものではありませんでした。


◎自分の優先順位が極端に低かった

上記の①に続くことかもしれません。
当時、相手を優先することが当たり前になっていて、そのために自分の言いたいことやしたいことは全て我慢をしていました。
長い付き合いで、心を許している友人でさえも、友人がしたい事を全て優先して「あんまりしたくないな」「行きたくないな」と思っても口にだすことはありませんでした。
当時はそれを相手に対する優しさだと思っていました。

その優しさは、悪いことではなかったかもしれませんが、私は理不尽な相手にも、同じように接していました。
相手が約束を破ったり、イラっとするような物言いをしたりして自分が傷ついても、いつも笑顔で「いいよ」「大丈夫」と言ってしまっていました。

本当は嫌なのに、したくないのに、自分の本音を言うことができず自分を傷つけてまで、ずっと相手に合わせ続けていました。

◎人を信じる・頼るという概念がない。極度の人間不信

当時は「人を信じる」「人に頼る」という発想がありませんでした。
その原因を自分なりに考え、整理してみました。

・周囲に泣きながら相談しても、「えらい」「しっかり者」で終わってしまい、ひどく傷ついた幼少期の経験
・「大好きな母の病気を治したい」という純粋な思いでケアをしてきた母から最終的に嫌がらせを受け、深く傷つけられた経験(前回記事参照)
・ずっと母から守っているつもりだった妹が、母から嫌がらせを受けている私を見ても何も言わずに味方をしてくれなかった経験(前回記事参照)
・母方の家族に助けを求めても、「あなた達の家族の問題」と助けてくれなかった経験

今振り返れば、人生の中で「人を頼って、助けられた」「自分の思いや気持ちを受け止めてもらった」という成功体験が1つもなかった気がします。

そのため、「人に頼る」「助けてもらう」「自分の素直な気持ちを伝える」という概念がなく、「自分で何とかするしかない」という選択肢1つしか自分の中にありませんでした。

そのため、大学時代はテストや実習・卒業論文等で一人でしんどいなと思っても、「自分でやる」という発想しかなかったので苦しみました。

友達や先生から「大丈夫?」と心配されて初めて、自分が追い詰められているということを伝えることができました。

その点で私は周囲から見ると、何を考えているのかわからず、接し方に困る人間だったかもしれません。
仲良くしてもらっていた友人や、親身になってご指導下さった先生方には、気を使わせてしまっていたなと思います。

■つきまとう母のトラウマ

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◎母に殺される悪夢

高校生の頃もよくみていましたが、大学生になってからはその頻度が多くなっていた気がします。
見る悪夢はきまって、母が包丁をもって私を追いかけまわす夢でした。
最後は、逃げ場がない場所に追い詰められ、包丁をふりかざした母の姿をみて「ダメだ…殺される」と思った瞬間、目が覚めました。

自分の荒くなった息や、ドクンドクンと波打つ心臓の音、頬を伝う涙で、「夢だ‥」と現実世界で安堵していました。


◎フラッシュバックする母との出来事

私の母が罹患していた「うつ病」「統合失調症」といった精神疾患に関連するワードにふれたり、母親が自傷に使っていたカッターや包丁を見たりすると過去の経験がフラッシュバックしました。

大抵のフラッシュバックは母親が暴れまわる場面や、母親が私に人格否定の言葉を浴びせる場面でした。
フラッシュバックした時は過呼吸になるほど呼吸が荒くなったり、思考が停止してしまうような感覚に襲われました。

◎思い出したくないのに、ふとした時に母親が思い浮かぶ

母親と同年代の女性と関わったり、街中で親子をみかけたり、なんとなく考え事をしている合間に、ふと母親が頭をよぎることが多かったです。

それは母関連の辛い記憶が蘇るフラッシュバックとは違い
「もし、元気な母親のままだったら・・」
「普通の優しい母親にもう一度会えたら・・」という想像でした。
母の子どもに産まれてしまったという事実さえも認めたくないほどに母のことを憎んでいるのに、いつもどこかで優しかった母親の姿を探し求めていました。

◎混乱したままの自分の気持ち

「気持ちを切り替えて、これからがんばろう」と前を向いて生きようと過去の自分と向き合おうとすればするほど、過去の経験とそれを取り巻く自分の様々な思いを整理することができず、頭が混乱しました。

過去の記憶に蓋をし、今までの人生をなかったものにして生きていこうとしましたが、そうするにはあまりにも過去の自分が慰められず、報われず、ずっともやもやとした感覚が自分の中にありました。



思い出したことがあれば、追記していきたいと思います



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