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異文化を理解することの難しさ イスラムの世界にて

.سلام

嘘をついたり悪いことをしたとき、祖母はいつも「お天道様が見てるわよ。」とだけ言った。一体どんな人物なのかは分からなかったが、脳みそまで透かして見られている気がして悪いことができなくなった。結果として、子どもの時からお天道様という存在は、悪巧みに対する相当な抑止力を持つものとして認識してきたんだ。


1979年のイラン・イスラム革命によりイランはイスラム教を国教としたが、ゾロアスター教の時代を終えこの国は長くイスラム教徒の国であり続けてきたため、はるか昔から人々の魂にイスラムが根付いている。

唯一神のことをそれぞれ、ユダヤ教ではヤハウェ、キリスト教ではゴッド、イスラム教ではアッラー(近世ペルシャ語ではホダー)と呼ぶ。イランではこのホダー(خدا)という文字を取り入れた言葉や定型文が極めて多く、信仰心に関係なくペルシャ語を話すようになれば、日常生活の中で何度もホダーを連呼するようになるだろう。

上記、昨年のnoteにて、時代の変遷によるイラン人のイスラム教に対する信仰度合いの差について少し書いたが、その差の角度に関係なくほぼ全ての人々の心には神がいる。手首足首の露出は勿論、お祈りとは全く疎遠の私のイランの友人たちですら、「全てのものは神がお作りになった。あなたのことを作ったのも神だ。」と口を揃えて言うので、これは遺伝子レベルで受け継がれているような絶対的な概念なのだと実感した。

一つの価値観を国民が共有しているのは国としての纏まりに直結し、イランが持つ大きな強みであるのですごく感心するよ。

編纂1300年を迎えた『古事記』を日本における聖書のような位置付けにするのであれば、八百万の神、天照大神を挙げるが、「1人の神がすべてを...」と続く彼らの熱弁ぶりには圧倒され黙り込んでしまう。
文化や考えの違いに興味を持ち受け入れることは出来ても、彼らの熱の入った神話の説明が腑に落ち、理解するまでに至ることはまず無いので申し訳なく思う。勿論、相手もこの違いを受け入れようとする姿勢を持ってくれてはいるが、ついつい熱が入って教えてあげたくなってしまうのだろう。


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挨拶で調子を聞かれると「うん。いいよ!神のおかげで。」と当たり前のように返してきた。

一体どちらの神のおかげなのかも知らず、ただ定型句に倣い、返す言葉たちが頭の中で反芻する時がある。

よく聞く”異文化を理解する"など、言うは易く行うは難しだ。簡単に言えたものではない。その難易度は、おそらく遥かに高いものだとここに来て初めて痛感したよ。

まぁ、もっと気楽で良いのかな。。

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