自分の文体をつくる その3
自費出版でデビューして、さらに商業出版で1冊本を出せたところで、私はすっかり行き詰まってしまった。
幸運なことに、大手出版社から単行本執筆の打診があり、一気に本格的に世に出るチャンスがやってきたのだったが、その大事なときに書けなくなってしまった。
精神的な問題ではなく、単純な話、書くネタがなくなってしまったのだ。
最初に出した本『旅の理不尽 アジア悶絶篇』は、学生時代から会社員時代にかけて出かけた旅の面白かった出来事を厳選して書いた紀行エッセイで、2冊目は会社を辞めて半年間東南アジアを旅した経験をもとに書いた旅行記だった。
どちらもほぼ同じ文体で、旅の中で起こったハプニングを面白おかしく書いたのだが、1作目は10年間の集大成であり、2作目は半年間ずっと旅を続けた結果やっと1冊書き上げたもの。つまりどちらも自分なりにたくさんの経験をした中から選び出したネタで構成されていた。そのぐらいの旅の時間を過ごさないと、1冊分にならないのだ。
そう考えると、今後もこのペースで書き続けるのは不可能に思われた。それでは食べていくことはできないだろう。
そこで私は、旅ではなくて会社員時代の出来事を面白おかしく書いてみようとした。会社には10年勤めていたので、それなりにネタはありそうだったが、記憶をたぐり寄せながらちびちび書いても、1冊にはなりそうになかった。
もし書くなら何か太い軸のようなものが必要だった。
たとえば、いかに自分の人生を切り開いたか、みたいな話であれば本として成り立つのだろうが、やっとこさ自分の本を書いた程度の人間にそんな立派な話が書けるはずもない。そもそも旅は好きだから書きたい気持ちがあるけれど、会社員時代の話を書きたいとは思わない。そんな本人も書きたくないものを、いったい誰が読みたいというのだろう。
あるいは世に訴えたいことがあるならそれを書けばいいが、単に面白い話を書きたいだけなのだった。私は途方に暮れた。
悩んだ末、会社員時代の話はいったん諦め、また旅に出ることにした。今度は大陸横断。
また半年あまり旅をして、それをネタに書き始めたのだったが、結果から言えば、それもうまくいかなかった。
旅は面白かったが、さほどハプニングも起こらず、何かを探求したというわけでもなかったため、面白い話になりそうにないのだ。
この時点で2冊目を出してから2年ぐらいたっており、せっかく物書きの玄関口に立てたのに、このまま何も書けないまま終わるのでは、と愕然となった。
もう、これまでのような書き方では、私は書いていけないのだ。
では、どうするか。
「自分の文体をつくる その2」でも書いたが、方法は3つあると考えた。そのうち、
①自分が動揺するシチュエーションを無理にでも作る
を選ぶと、必ず苦労すると判断した。どんどん行動が過激化し、悪くすると自分自身の精神を蝕む可能性すらある。
なので本当は、
②笑いを捨てて、何かを調べて真面目なノンフィクションを書く
方向へ進むのが順当に思えた。でも、自分はそんなことがしたくて物書きを目指したわけではない。もっと文章そのもので楽しませる作品が書きたい。
私が出した答えは、
③動揺がなくても笑える文体をさぐる
だった。
このとき私は、会社員時代の話はあきらめ、大陸横断話もあきらめ、シュノーケリングの話を書こうと考えていた。
私は海へ行っていろんな生き物を見るのが好きだったから、あの楽しさを書いてみてはどうかと思ったのだ。
ただ、自分は生物の専門家でもないし、魚に詳しいわけでもない。今から徹底的に勉強して、詳しくなろうという気持ちもない。勉強は悪くないが、その道で(生物ライターとして)生きていこうとは考えていなかったので、そこまで身が入らないと思った。
むしろ頭の中は、何でもない話を、どう楽しく書くかという、その一点に集中していた。
これが書けなければ、物書き人生はここで終点だ。
私は何ヶ所か海へシュノーケリングしに行き、それをもとに書き始めた。
旅自体は楽しかった。しかし最初に想定した通り、そこで何か面白いハプニングが起こるようなことはなかった。
当時の日記によれば、書き始めたのが11月の頭で、11月18日の日記にこうある。
《原稿は10枚ぐらい書いてみたが、何かしっくりこないものがあって先へ進めないでいる。この本のネタは今までの2冊よりずっとうすいので、どうしても書いていてピンとこない》
翌11月19日の日記
《書いても書いても自分で納得できず、もう何度書き直したかわからない。冒頭というのは何の手がかりもないし、どうとでも書けるということもあり、茫洋としたままで、ついいろんな先人の本を読んで影響されたりする。特に影響されるのは自分の前作2つで、今回はネタもないのだから、同じではいけないのに、そうなってしまう。わかっていても無理やりギャグをこじ入れてしまうのだ。そうしないと不安になってしまう。(中略)はやく自分の文体が定まって、普通に書けば面白いというふうになりたい》
書き始めて1カ月、12月になっても混乱は続き、
12月6日の日記
《どうしてもスルスルと書けないのは、やはりヤマ場のない本をどう書いていいのか、よくわかっていないからだ。ただズルズル書いていて、それがどうしたという気持ちがある。全体の感じで笑わせる、何かを感じさせるという按配が、とても難しい。何度も何度も書き直し、何をやってるのかわからないような変な境地になってきた》
さらに翌年の1月になっても、ちっとも進まない。
1月5日の日記。
《シュノーケルが行き詰まっている。どうしても300枚も書けそうにない。書けない内容なのだ。内容は自ずからそれに値するボリュームがあって、書けないとなれば、書けないものだと思う。今のネタはせいぜい150~200枚のネタとしか思えない。それを引き延ばそうとしてくだらない内容になっていく》
1月18日の日記。
《どうしようもないスランプ。シュノーケル日記が書けない。フィリピンの100枚を書くには書いたが、こんなもの読まされてもという内容。不安で仕方ない》
この段階で、原稿は、ただ出来事を並べただけの日記みたいなものでしかなかった。
旅そのものは面白かったけれど、先にも述べたように、自分が面白かったからといって、そのまま書いたら読者には鼻白むものになる。そこは気を付けなければいけないところだった。
焦る。3カ月経っても何もつかめていない。状況は絶望的に思えた。
私は先人のエッセイを漁った。何かヒントになる作品はないか。
そうして見つけたのである。
読みながら、まさに探していたのはこれだ、と思った。
それは、
内田百閒『第一阿房列車』
という紀行エッセイだった。
《用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う》
というトボけた書き出しではじまる。
つまり百閒は今でいう乗り鉄で、その旅の目的をこのような諧謔味あふれる言い回しで、表現しているのである。
本文も全編この調子で、ただただ電車に乗っている描写が続くだけ。これといったハプニングは起こらない。
にもかかわらず、徹頭徹尾面白く、最後まで飽きさせない読み心地。読み終えたあと、いったい何が書いてあったのか、よく思い出せないぐらい何も起こらなかったけれど、ふわふわした気持ちの良さが残った。
まさに何でもないことを面白く書く。私のそんな目論見に見事に合致していた。
こんなふうに書けないものだろうか。
私は『第一阿房列車』の分析を開始した。
つづく