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アラン・ドロンの映画が伝えたフランスの現代史と帝国主義
フランスの俳優のアラン・ドロンが亡くなった。ファッションデザイナーの高田賢三氏は、アラン・ドロンやジャン・レノなどに、福島県の伝統的民芸品である「おきあがりこぼし」の絵付けをしてもらい、東日本大震災の被災地、特に福島第一原発の事故を世界に訴え、被災地の現状や震災支援への理解を促す活動を行ったことがあった。おきあがりこぼしは、七転び八起きの縁起物だが、大震災にも負けない日本人の不屈の精神のシンボルとしても高田氏は考えたのだろう。
アラン・ドロン主演の映画は日本でもヒットし、日本にファンも多くいたので、彼は日本にも関心をもち、1963年からたびたび来日していた。1983年11月1日、広島市の平和記念公園を訪れ、原爆慰霊碑に献花を行った。原爆資料館も見学し、展示を見て回ったドロンは「ただただ驚くばかりで声も出ない」とため息交じりに繰り返したという。「ヒロシマという言葉には西洋人にとって他の都市とは違った想いがある。人類というすばらしい才能の持ち主が悲劇を繰り返すこのないよう、心から祈っている」と述べた。(中国新聞、1983年11月1日夕刊)ドロンは、アルジェリアの砂漠やタヒチで核実験を繰り返した自国の核兵器にも想いを馳せたのかもしれない。
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アラン・ドロンの映画はいろいろ観たが、「パリは燃えているか」(1966年)とか、「名誉と栄光のためでなく」(1966年)などのフランスの現代史を描いたものが特に印象に残っている。
「名誉と栄光のためでなく」はアメリカ映画で、フランスの植民地だったベトナムとアルジェリアが舞台となっている。そのストーリーはallcinemaによれば、以下のようなものだった。
「インドシナ地域でゲリラ部隊と激闘を繰り広げたフランス軍パラシュート部隊の将校ラスペギイ(アンソニー・クイン)。彼はその戦争終結後、フランスへ帰還するも、ほどなくしてアルジェリアで新たな任務に就くことに。エスクラビエ(アラン・ドロン)ほかインドシナで共に戦った盟友たちを部下に率いたラスペギイは、さっそく現地に乗り込み、テロリスト集団の反撃に立ち向かう。そのテロを指揮する男は、ラスペギイのかつての戦友マヒディ(ジョージ・シーガル)だった。そんな中、エスクラビエは地元の美しい女性エイカ(クラウディア・カルディナーレ)と出逢い、互いに惹かれ合っていく。しかし、彼女はマヒディの妹だった。エスクラビエが戸惑いをみせる一方、ラスペギイはマヒディ打倒を目指すのだが…。」
ストーリー展開、キャスティングはいかにもハリウッド映画だったが、近現代におけるフランスなど欧米諸国の世界観が表れているように思った。アルジェリア独立戦争を戦ったアルジェリア人を「テロリスト」と形容している。このあたりは、対テロ戦争でアメリカと戦ったタリバンやイラクの武装集団、またイスラエルと戦うハマスが「テロリスト」と形容されることと通じるものがある。インドシナでは「戦友」だったマヒディは「テロリスト」となり、敵として戦うことになった。
アラン・ドロンは俳優になる前に17歳で志願してフランス軍に従軍してインドシナ戦争に参加していた。ドロンはフランスが植民地を維持しようとしたインドシナ戦争に従軍することで、フランスの掲げる理念と現実のキャップを知ることになったのかもしれない。
フランスは16世紀にインドシナに進出するようになり、18世紀までにインドシナ支配を確立した。1887年、ベトナム、ラオス、カンボジアを「仏領インドシナ連邦」としてまとめ上げ、ゴム、コーヒー、茶、綿花などのプランテーションによって莫大な利益を上げるようになった。世界の米の4分の1を輸出、天然ゴムの3分の1を産出したインドシナ連邦は「フランス帝国の宝石」とも形容された。
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第二次世界大戦中、日本軍の占領によってフランス支配が中断したが、戦後、フランスは再支配を試みたが、ホー・チ・ミンは「ベトナム独立同盟(ベトミン)」を組織し、1945年9月2日、ベトナム民主共和国の独立を宣言すると、フランス軍はハノイなど主要都市を制圧、1946年末、第一次インドシナ戦争が勃発した。フランスは49年、ホー・チ・ミンの対抗馬として前アンナン王国皇帝バオ・ダイを擁立し、傀儡政権を樹立(ベトナム国)し、ラオス・カンボジアとともに「フランス連合」を樹立する。
冷戦の環境下で中ソは1950年1月に「民主共和国」を承認、北朝鮮や東欧諸国も追随していった。翌月、東側陣営に対抗して、アメリカはイギリスとともに、フランスの傀儡であるバオ・ダイ政権を承認、5月にアメリカは対インドシナ1000万ドルの軍事援助に踏み切り、朝鮮戦争が始まると、インドシナへの援助もまた強化された。50年9月、米軍事援助顧問団が発足し、インドシナは米ソの代理戦争の場になっていった。アメリカはフランスの戦費の78%を負担するようになり、フランスはバオ・ダイ軍を増強、ディエンビエンフーを舞台にベトミン(ベトナム独立同盟会)を粉砕する計画を立てたが、54年5月7日、ディエンビエンフーが陥落し、ジュネーブ会議でベトナムは北緯17度線で南北に分断された。アメリカはインドシナで共産主義勢力を封じ込める任務をフランスに変わって引き受けることになり、ベトナム戦争の泥沼にははまっていくことなった。
フランスがディエンビエンフーで敗れた1954年にアルジェリアでは独立戦争が始まったが、100万人とも見積もられるアルジェリア人の犠牲を出し、またフランスが頻繁に用いた拷問は世界的にも評判が悪かった。フランスの人権侵害に対して日本の学生たちもアルジェリアに同情し、全学連がアルジェリアの独立運動家あっちを日本に招待したこともあった。
アラン・ドロンが出演した映画「パリは燃えているか」でもパリ解放で凱旋門をくぐる自由フランス軍の隊列にアルジェリアやセネガルなど有色人種の兵士たちが加わることはなく、フランス社会の人種主義を見せつけていた。中東は、いまのガザ攻撃に見られるように、フランスやイギリスがつくった秩序に呻吟し、第二次世界大戦後多くの血が流れているが、ドロンの映画も様々な形でフランスの現代史を伝えている。
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