階級、人種主義、戦争にNOを突き付けたビートルズと、米国の人種主義の壁を壊した1964年の「9月11日」
ビートルズが階級社会、人種差別、戦争に「NO」を突き付けたことは、6月12日夜にオンエアされた「映像の世紀バタフライエフェクト ビートルズの革命 『のっぽのサリー』の奇跡」でも強調されていた。ビートルズの音楽は、番組タイトルにあるように、黒人のロック・ナンバー「のっぽのサリー」に大いに動機づけられ、その人間の能力を超えたような音楽によって彼らには人種主義などを意識することは当初から希薄だった。
ビートルズのデビュー前、10代半ばのジョン・レノンとポール・マッカートニーはロックに夢中になっていた。中でも二人をひきつけ、進むべき道を決めたのは、既述の通り米国の黒人ロックンローラー、リトル・リチャードの「のっぽのサリー(Long Tall Sally」だった。
「初めて『のっぽのサリー(Long Tall Sally)』を聴いた時はあまりにすごすぎて言葉が出なかった。あんなにすごいものがこの世に存在するなんて。他にもいろんなことがあったけど、15歳のボクの心を射ぬいたのはロックンロールただ一つだった。」―ジョン・レノン
ビートルズを世界的なスターに押し上げたのはリバプールの実業家で、彼らのマネージャーだったブライアン・エプスタインの功績が大きかった。ビートルズは髪を伸ばし、お揃いの上等で独特のスーツを着用し、都会の若者を演出して見せた。「モヘアのスーツでステージに上がると黒人アーティストになれたような気分になった。」(ポール・マッカートニー)
番組を観て意外な感じがしたが、イギリス生まれの彼らは曲が終わると、日本の文化のように、一曲ごとに丁寧にお辞儀をするようにもなっていた。また、プロの作詞・作曲家の曲をバンドが演奏するという殻を破り、自分たちで曲を書くようにもなった。
エプスタインのもくろみは見事に成功して、単純労働を行う労働者階級出身のビートルズは、貴族や大地主の上流階級、医師や弁護士など専門職を中心とする、経済的に豊かな中流階級を音楽やファッションで吞み込み、階級の壁を壊し、労働者階級でも社会的成功を収めることができることを示した。
ビートルズはリトル・リチャード、ファッツ・ドミノなど黒人音楽に対する敬意を事あるごとに示していた。1964年9月11日、フロリダ州ジャクソンビルで行ったコンサートでは人種隔離を行うならコンサートは行わないと宣言した。「人種隔離なんてくだらないよ。黒人だって他の人たちと何も違わないじゃないか。人間を動物扱いするなんてバカみたいだ。僕は自分の隣に誰が座ったってかまわない。」(ポール・マッカートニー)ジャクソンビルのコンサートは、米国の人種主義の因習を破った1964年の「セプテンバー11」だったが、白人と黒人が入り混じって2万3000人が集まることは人種主義が横行する米国ではまさに画期的なことだった。
この「バタフライエフェクト」では、日本公演は外国人に武道館を使用させるのはけしからんという日本の右翼の様子などが紹介され、警備の厳重化がビートルズにコンサート活動を躊躇させることになったと紹介されていたが、日本公演では彼らの安全のためホテルの外に出られなかったことは強調するまでもなかった。
番組では階級や人種主義に対するアンチテーゼとしてのビートルズは明確に描かれていたが、戦争にNOと言ったビートルズは次回紹介するということか。番組ではベトナム戦争について尋ねられたビートルズが記者の質問に戸惑う姿が描かれていたが、ビートルズは戦争について明確な考えや立場を1966年頃からもつようになった。ポール・マッカートニーは、イギリスの哲学者のバートランド・ラッセル(1872~1970年)に1966年6月18日と6月20日に面会している。(ラッセル夫人のスケジュール帳による)その年の6月30日から7月2日にかけて行われた日本公演の直前のことだった。
ポール・マッカートニーはラッセルとの面会を「ベトナム戦争は非常に良くないことで、米国が自国の既得権のためだけに戦っている帝国主義的な戦争だということを教えてもらった。この戦争には反対すべきだと。偉大な哲学者の言うことだからそれだけ聞けば十分だった。」と回想している。
ポールはジョン・レノンにラッセルの言葉を伝えたが、ラッセルの考えに影響されたジョンは1967年に戦争を皮肉るコメディ映画「僕の戦争」に出演し、また「イマジン」「平和を我等に」など平和への想いを込めた曲を作るようになった。ビートルズは戦争についても「愛こそはすべて」(1967年)のように、愛を説くことで明確に否定するようになり、世界の若者たちのオピニオンをリードしていった。
アイキャッチ画像はNHK「ビートルズの革命 赤の時代 『のっぽのサリー』が起こした奇跡」より
初回放送日: 2023年6月12日