松本清張と井上靖 ―シルクロードが教える肝心なこととは?
西日本新聞に「松本清張と井上靖…戦後を代表する作家2人の接点に迫る企画展 初公開の書簡も」と題する記事が22日に配信された。北九州市の松本清張記念館の企画展で清張と井上との40年近くにわたる交流の中で清張が井上に宛てた書簡も公開され、作家の清張が2歳半上の井上を目標としていた軌跡が紹介されるという。二人は新聞社に勤務していたという共通の背景をもち、企画展の紹介によれば、清張は「私は井上靖の出現がなかったら、何を目標にして作品を書いていいかわからなかった。井上氏によって私の行く道は決定した」と述懐していた。
井上靖はシルクロードに憧れをもち、『敦煌』『楼蘭』『昆崙の玉』など、西域を舞台に数々の小説を書いた。また、『私の西域紀行』では、4度の踏査をもとに、天山山脈、タリム盆地、火焔山などを鮮やかに表現し、さらに『アレキサンダーの道』では井上がアフガニスタン、イラン、トルコというシルクロードの途上にある3カ国を旅して古代遺跡を廻るシルクロード紀行で、内戦前のアフガニスタンや王政時代のイランの様子を、遺跡の旅を介してうかがい知ることができる。
シルクロードは日本の文化形成に大きな役割を果たした。シルクロードの途上の西域には、日本人の旅情をそそる幾多の歴史的ロマンがある。
奈良・正倉院の宝物は、仏教を深く信仰し、東大寺の大仏をつくった聖武天皇がなくなったときに、妻の光明皇后が、聖武天皇が大切に使っていた品々や宝物を、大仏への供えとして、東大寺に収めたことに始まる。収蔵されている宝物には、遣唐使らが唐から持ちかえった美術工芸品や、ペルシアやインドなどからシルクロードを通って運ばれてきた品々がある。
イラン最初の王朝は、アケメネス朝(紀元前550年成立)だが、その後を継承したササン朝ペルシア(226~651年)時代には、シルクロードを経由して、日本とのつながりができた。正倉院に収蔵されているガラス器「白瑠璃碗」は、当時のペルシア帝国の繁栄をしのぶ品として有名だ。
井上の西域への憧れに触発されたのだろうか。松本清張もイラン文化と日本とのつながりについて『ペルセポリスから飛鳥へ』や小説『火の器』を通して紹介している。
清張は『ペルセポリスから飛鳥へ』などで、イランの日本の奈良二月堂の「お水取り」や「火祭り」の行事も、イランのゾロアスター教の影響を受けたものではないかという推論を立てた。ゾロアスター教は、全能の神アフラマズダと、それと対立する悪神アーリマンの存在を認め、善神であるアフラマズダが悪神に究極的に勝利を収めることを理想とした。ゾロアスター教では、アフラマズダに光明を見いだすことから、火の崇拝を行った。ゾロアスター教が「拝火教」と呼ばれるのは、そのためだ。松本清張は、古代日本にイラン人がいたのではないかとも語っていた。
この松本清張の推論が歴史的事実として客観的に認められたのは、2016年10月5日、奈良文化財研究所が平城宮跡で出土した「天平神護元年」(765年)と記された木簡に、「破斯清通」という人の名前があったことを赤外線撮影によって明らかにしたことによってだった。「破斯」とはペルシア(イラン)を表す「波斯」と同じ意味の言葉だ。国内の出土品でペルシア人の存在を示す文字が発見されたのはこれが初めてだった。この木簡は役人を養成する「大学寮」での宿直勤務を記すものだそうだ。
考古学者で、シルクロードの研究者である加藤九祚(かとう・きゅうぞう)氏は自著『中央アジア歴史群像』でシルクロードへの関心を次のように語っている。
「世界は遠い昔からつながっていたということが大前提で,そのことが証明されることがうれしい。それらの人々は戦いではなくて生活の中でつながっていたということがシルクロードの肝心なことではないかなあと思っている。」
井上靖や松本清張のシルクロード研究もまた現代のような「国境」という障壁のない古代の交易路が人間社会の共存システムとして機能するものでもあったことを教えているように思う。現代世界はこの世の栄光を誇るような人物たちによって攪乱されているように思えてならない。シルクロードの詩人マハトゥム・クリ(1724~1807?:トルクメニスタンの国民的詩人)は次のような詩を遺している。
この世の栄光を誇るなかれ、私たちの存在は短い
お前は留まることなく、必ず通り過ぎる、お前は永遠でない
死という献酌官がお前に透明な飲み物を運んでくる
自らが死の盃にすがりつく、お前は永遠でない
表紙の画像は西日本新聞の記事より