「折り鶴」で原爆症の克服を祈った佐々木禎子さんのエピソードを表したトルコの詩人と、その詩を英訳したピート・シーガー
トルコの詩人ナーズム・ヒクメット(1901~63年)は、2歳の時に被爆し、原爆症にかかりながら「千羽折ったら元気になる」と願って折り鶴をつくり続け、12歳で亡くなった佐々木禎子さんの物語に心を打たれて広島の被爆を題材にする「女の子」という作品を残した(日本では「死んだ女の子」というタイトルになった)。
この詩に感銘した日本の女性たち4人とナーズム・ヒクメットの間で1960年に交換された書簡が2017年、ヒクメット没後54年目にして公開された。ある女性は手紙に「『女の子』の詩に心を打たれない人は誰もいません。この詩をいつ声に出して読んでも涙で胸が張り裂けそうな思いにさせられます。心はつらく悲しい気持ちでいっぱいです。広島を忘れてはいけないことを、人々に叫びながら訴えていかなければならないと感じています。」と書き記し、 ヒクメットは、「わたしの『女の子』に命を吹きかけてくれた日本人女性のみなさんに心から感謝します」と返信した。
この詩は外山雄三が曲を付けて日本では高石ともやや元ちとせなどが歌ったが、元ちとせは2002年に広島市の原爆資料館を訪ね、石畳に焼き付いた影と、「女の子」の姿が重なり、あらためて歌いたいという思いになったという。元ちとせが坂本龍一のピアノ伴奏で広島の原爆ドーム前で2005年に歌う動画は
にあるが、二人のまさに魂が込められたようなパフォーマンスだった。 死んだ女の子 ―ナーズム・ヒクメット(中本信幸訳)あけてちょうだい たたくのはあたしあっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくのこわがらないで 見えないあたしをだれにも見えない死んだ女の子を(中略)戸をたたくのはあたしあたし平和な世界に どうかしてちょうだい炎が子どもを焼かないようにあまいあめ玉がしゃぶれるように炎が子どもを焼かないようにあまいあめ玉がしゃぶれるように(全文は
にある) これを英語に訳したのは、「花はどこに行った」「勝利を我等に(We Shall Overcome)」などで知られる米国のフォークソング歌手のピート・シーガー(1919~2014年)だった。彼は、「死んだ女の子」に「I come and stand at every door(私はどこの家の戸口にも立ちます)」という英語タイトルをつけて彼自身やバーズなどが歌った。(前略)All that I ask is that for peaceYou fight today, you fight todaySo that the children of this worldMay live and grow and laugh and play私が欲しいのは平和だけ今日そのために戦うの、戦うの世の中の子共たちが成長して笑って遊べますようにシーガーの英訳詩全文とバーズやシーガーによる演奏、また日本語訳はhttps://us-vocal-school.com/.../archives/00024509.html にある。
シーガーは反核運動にもかかわるとともに、彼には原爆を投下された国である日本や日本人に対する特別な理解もあった。ピート・シーガーの夫人であるトシさんは日本人の父親とアメリカ人の母をもち、ドイツで生れ、生後6か月でニューヨークに移住した。二人が出会ったのは1939年、結婚したのは第二次世界大戦中の1943年のことだった。シーガーは23歳の時、1942年秋に、二等兵としてアメリカ在郷軍人会のカリフォルニア支部に派遣された。シーガーは1942年2月に日系人が強制収容されることを知ると、憤慨して、日本人を強制収容するならば、なぜ敵国のドイツ人、イタリア人、ルーマニア人、ハンガリー人、ブルガリア人たちに対しても同様な措置をとらないのかと在郷軍人会に訴えた。 シーガーが1968年にオーストラリア・メルボルンで日本の「原爆を許すまじ」をやはり英訳詩と原詩を交えて歌った動画がある。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm31206026
彼の歌に聴き入る聴衆の表情からは東西冷戦とベトナム戦争が進行する中で原爆の恐怖を切実にとらえていたことがうかがえる。被爆の惨禍の記憶が薄れ、核で恫喝したり、核抑止しか視野にない世界の指導者たちがいたりする中で、原爆被害に遭いながらも生きたいという想いを切実に訴えた少女のエピソードを、地理的には冷戦の最前線の国トルコにいて詩に表したヒクメットと、世界最大の核保有国から核の恐怖を声高に訴え続けたシーガーの活動は語り継がれていくべきものなのだろう。まさに1960年にヒクメットに宛てた書簡のように「広島を忘れてはいけない」のである。
表紙の画像は元ちとせと坂本龍一