#8:『リズと青い鳥 考察』 "才能"とは、一体なんなのか。
こんにちは。今回はやりたいと思っていたレビュー記事です!初エントリーでも「タイトルレビューではなく抽象的な考察をしたい」と書きました。ストーリー考察・作品評価ではなく、コンテンツを通じて得たセンスを考え言葉にしていきたいと思います。
元々はゲームタイトルで始めてみるつもりが、先日視た映画に、翌日の仕事に集中できないレベルで感情をグッチャグチャにさせられ笑、この感情を自分の言葉に変えて消化させないと一生完結させられないと思い、書き始めています。その映画が『リズと青い鳥』です。
『リズと青い鳥』概要と感想(ネタバレ無)
本作品は2018年公開の映画で「響け!ユーフォニアム」原作のスピンオフ作品。監督は山田尚子さん、制作は京都アニメーション。公式サイト・あらすじを引用します。
原作の「響け!ユーフォニアム」は一度も見た事がありません。何となく気になってていつか見たいとな~…くらいの期待値の映画でした。
が、視聴後はとにかく心が抉り取られた。感想を形容できる単語が見つからない。『辛い』でも無く『切ない』でも雑すぎる。強いて挙げれば…『コンプレックス』かなあと(当然のように号泣しましたw)
ここ最近で見た映画で最も胸に刺さった映画、間違いなく名作です。繊細な心理描写の表現・無駄なく全てに意味がある構成など日本アニメーションでしか創り得ない大変素敵な作品です。
ここから自分が感じた『コンプレックス』な感情を分解したいと思います。
※ ここからネタバレ有。映画未視聴の方はご注意ください ※
"才能"とは一体、なんなのか?
才能は「強い」嫉妬を生む
先ほどこの映画を『コンプレックス』と表現しましたが、そのコアとなる部分は「みぞれの才能に対する希美の嫉妬」です。才能への嫉妬、は人間にとって違和感のある事ではないかもしれません。が、「賞賛されるべき優れた才能(正)が嫉妬の感情(負)を生む」って改めて言葉にするとメチャクチャ矛盾していませんか?この構造って、要は「光と陰」なんだろうなと思いました。
才能=「周知を照らす太陽」
周囲を照らす=「光(羨望)」と「陰(嫉妬)」を生む
陰(嫉妬)=太陽と距離が近いほど大きくなる
優れた才能は、基本は周囲に希望や輝きを与えるものです。しかし太陽と同様にその輝きが大きいほど、そしてその輝きに近いほどに陰りを作る側面も持ち合わせている。
特に注目すべきは「距離の近さ」。例えばスポーツでも芸能でも、一般人から距離の遠い「プロ選手」に対して羨望はすれど「強い嫉妬」をすることはあまり無いはずです。「強い嫉妬」という感情は関係性の深い人間との間でしか芽生えない特殊な感情なのだと感じます。
強い嫉妬が芽生える人間は、尊い
その特殊性をもう少し分解します。強い嫉妬が芽生えるには2つの前提条件があり、その前提そのものが特殊性をはらんでいます。
前提①自分の中に懸ける思いが無いと芽生えない
「本気の思い」がある故に認められない競争性をはらんでいる
前提②思いをぶつけられる身近な間柄でしか芽生えない
「認めたい」けど「妬ましい」という矛盾性をはらんでいる
日常的に抱く「楽しい」「嬉しい」「悲しい」などの感情と異なり、特殊な前提条件の中でしか生まれない、故の「特殊な感情」なのでしょう。
『リズと青い鳥』の希美(とみぞれ)に当て嵌めて考えてみます。
前提①自分の中に懸ける思いが無いと芽生えない
フルートソロのある本楽曲への強い意思
作曲家(卯田さん)への精通など音楽に向き合う姿勢
前提②思いをぶつけられる身近な間柄でしか芽生えない
中学校からの友人で吹奏楽部の仲間
楽曲内で重要なオーボエ・フルートのメイン担当同士
みぞれの希美への依存(恐らく希美も気付いている)
前者は作品冒頭における、希美の発言から汲み取れます。
もし希美にこの懸ける思いが無ければ、作品内の多くの描写はここまで強い表現にならなかったでしょう。誰よりもこの楽曲に懸けていたから、認めたくなかった。その対象が関係性の深いみぞれだったから、強い嫉妬が生まれた。この複雑性が終盤の感情の爆発を、際立たせていたと思います。
話が逸れますが、皆様は自分の人生で本当に強い嫉妬を抱いた経験ってどれ程あるでしょうか?更に問うと、この数年間で抱いたことが一度でもあるでしょうか?
これは完全に感覚ですが、強い嫉妬を抱く経験は人生で決して多くなく(人によっては一度も無い)歳を取るにつれ減っていくと思います。後者はライフステージの変化、など様々な理由が考えられますが、先ほどの前提を逆説すると「懸ける思いを持てる物事が減っていく」か「それをぶつけられる程の存在が減っていく」とも考えられます。
嫉妬、というのは一般的には醜い感情として表現されます。
しかしこの作品を通じ「強い嫉妬が芽生えるほど本気で打ち込み、それがぶつかる身近な存在がいる」人間は、むしろ最も尊い存在なのではないかと思いました。
"才能"へのスポットライト
みぞれの持つアート的才能
本作品では「周囲を照らす太陽(才能)=みぞれ」と「その光で生まれた光と陰の葛藤=希美」の対比にスポットライトが当てられていたはずです。だからこそ、前述した尊いコンプレックスが表現されこの作品の価値が昇華されたのだと思います。し、実際に「吹奏楽部」という世界において「演奏技術」という才能こそ脚光を浴びるべき絶対的正義なのだと思います。
けど、私が作品を視て感じたのは「希美(のような人間)が持つ才能」です。それは「演奏技術」の方では無く、人間性としての才能です。
傘木希美は作中でも、部内の中心的存在として描かれています。
作品冒頭ではフルートパートの賑やかさが表現され、オーボエパート1年の剣崎からも個人的な相談を受ける存在です。みぞれからも終盤で「みんなを引っ張っていつも楽しそうで凄いなと思ってる」と言及されています。
希美の持つヒューマン的才能
最後の理科室のシーンでみぞれの口から「希美のフルートが好き」が出てこなかったことからも、みぞれは希美の人間性が放つ光に照らされていたことがわかります。2人のコミュニケーションの絶妙なズレの積み重ねは、2人がお互いの見ていた才能の種類の違いに起因していると思います。
ここで重要なのが、どれだけすれ違いが起きようと、中学時代にひとりぼっちだったみぞれに希美が声をかけたことで、孤独から救った事は紛れもない事実ということ。希美本人はよく覚えてないと語っており深い意図は無かった可能性が高いですが、この「分け隔て無さ」は多くの人の世界を広げてくれる、強く周囲を明るく照らす「才能」だと、私はずっと前から思っています。
希美の才能に救われる人はたくさん居る
私事ですが、中学1年生の時にとある同級生の「分け隔て無さ」により孤独から救って貰った経験があります。その時から私にとっての英雄像は、強者でも弱者でも分け隔てなく向き合える人です。
ちなみに真の意味でのそういう人は実際にはほとんど居ません。友達が多い人・顔が広い人・誰とでも話せる人はいても、逆境にいる人間に手を差し伸べられる人、しかも希美のようなカースト上位でやれる人は本当に一部の人だけです。当人にとっては何気ない行動だったとしても、手を差し伸べられた側はそれでどれだけ救われることか。
この作品が、胸に刺さったのは、作品として特にスポットライトが当たったみぞれのアート的才能ではなく、ずっと希美のヒューマン的才能に自分の英雄像を重ねて見てたからなのだと思います。そして、そんな眩しい才能を持つ希美が終盤に
と口にするのがメチャクチャ辛かった。自分の中の英雄が蹂躙されているような気でしんどかった(このシーンの直後に、みぞれを吹奏楽部に誘う眩しすぎる回想が流れる演出キツすぎた。もう止めてくれw)
最後に、誰に向けるでもなく、自分の中で消化するために書いておく。現実でも分り易くスポットライトが当たるのはアート的才能(スポーツ・音楽・芸術・学術など)。ヒューマン的才能ってありふれた様に感じるし、分り易くキラキラしてない時もある。
けど、そんなヒューマン的才能によって救われる人や世界が広がる人って世の中にたくさんいると思う。実際自分がそうだった。希美は自分の事を「普通の人」と言ったが、分け隔てなくみぞれを救ったその輝き=才能をこの記事を通じて、肯定させてほしい。
終わりに:ラストについて
大変長い内容になりましたが、この作品を通じて感じたことを言語化できて無事に自分の中で消化させることが出来ました。自己満にお付き合い下さり有難う御座いました。笑
最後に、作品に対する感想っぽい話を最後に。本作品は2人の関係性を
・互いに大事な存在と思いつつ、ずっとすれ違っている
・ずっとすれ違っているが、互いに大事な存在
のどっちで見るかで景色が変わると思います。答えがあるかはさておき、自分は後者であって欲しいと思います。前述の通り、自分の中の英雄像が崩れ去って欲しくないというエゴです。
何より作中で散りばめられた「ハッピーエンド」というワードそれを示唆していると描写であると信じたいと思ってます。
最高の映画でした!最後までご高覧下さり有難う御座いました。