考えることの意味も、創作することの喜びも
考えることや創作することの意義が分からないというのは、自分にとって
文字通り致命的な悩みだった。
「考える」とはなんなのか。
「自分が」考える意味はなんなのか。
素敵なものを作り出す人や、なるほどという考えを話す人。そういう人への身を焦がすような憧れがあるくせに、
自分自身がそうすることの意味は小さい頃からずっと分からなかった。
「まあ最終的にはあなたのことだからね。
よく考えなさい」
「よく考えて、自分にしかできないことを見つけなさい」
そんなことを言われると大海に放り出されたような、所在のない気持ちになる。言葉のうらに愛があるかどうかに関わらず、いつも同じ気持ちになるのだった。
考えるとはなんなのだろう。
頭の良い人たちがいっぱい考えた後に、自分が考える意味はなんなのだろうか?
これは考えたと言えるのだろうか?
自分にしかできない考えってなんだろう?
こんなに素敵だと思える本や素敵なことを書く人がいて。そのうえ、ちっぽけな自分が考える理由はないように思う。
ちょうど良いと思われることは書けたけれど
考えることそれ自体に意味や喜びを見出すことができなかった。
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noteを書き始めると書くために色々なことを深く見る必要が出てきて、その中で、ひとつの答えのようなものにたどりついた。
きっかけは「ひろゆきさん」という人。あの巨大な掲示板を作った人だ。
なにかの番組で、
「人工知能は自我を持つことはあると思いますか?」と質問された。
それに対して彼は、「そもそも人間や生物だって自我を持っていると言えるのだろうか?」と話し始めた。
たとえば、流行っているものに乗っかる人は、本当に自我で動いているのか?
群れの先頭についていくだけの羊は果たして考えているのだろうか?
最終的に「ニワトリのマイク」の話をした。
マイクは首を切られた時、奇跡的に気管の切れ目のようなところで切れたので、首を切られたまま1〜2年生き延びたという。
それでマイクがぴょんぴょん跳ねたりするのは、脳がないのに、それを自我と呼ぶのか?というのだ。
内容の是非は分からないけれど、その話を聞いた時、この人は「考える人」なのだと思った。
一つのことと全く異なることを結びつけて、一つの答えを導き出す。これは当分人工知能にはできない、「考える」ことなのではないだろうか。
そのあと、立て続けに読んだ
「はじめて考えるときのように」という哲学入門書でも、まさにそのようなことが書かれていた。
著者の野矢茂樹さんは、「考える」ということは「関係性」を見つけることだと言った。
なにかしらの問いを頭の中において、
「これとこれは繋がるじゃないか」と思う。
これが考えることらしい。
ニュートンもプラトンも、そうして世紀の大発見をしたという。
そう考えると、今まで憧れていたさまざまなことが、この定義でピッタリと収まった。
「あらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河」も。
「お前、よくそんなギャグ出せたな。陶芸家やったら割ってるヤツやで」も。
これが考えることだったのか。
考えることはもっと高尚で、難しいことだと思っていた。
もちろん、考えの深さや結びつけのセンスはある。でも、考えることそれ自体は、単純に繋がりを見いだすことなのだから、
もっと気軽に、考えてみればいいのだ。
そしてそう考えると、考えることにオリジナリティを求めるというのは、全くもって馬鹿らしかった。
見たもの、感じたこと、知ったこと。
それらが自分のプールの中にバラバラとたまる。
自分のプールと他人のプールは違うのだし、自分の見つけた関係性は、間違いなく、オリジナルにしかなり得ないと思えるようになった。
自分で何かを考えたり、書いたりすること。
そしてプールにモノを溜めるように、見たり感じたりすること。
そのすべてが最近、はじめて楽しい。
小さくてゆっくりで、無意味かもしれない。
それでも、わたしにしか見つけられないつながりをひとつひとつ紡いで行きたいと思う。
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