short story「スパイスノート」
スマホに残された二年前のTeamsチャットを見つめていた。
「報告が不十分です」「確認が足りていません」
画面に並ぶ私のメッセージは、必要以上に尖っていた。
リモートワーク中、コミュニケーションに悩んでいた頃の痕跡だ。
今では週五日の出社も定着し、以前のようにオフィスで顔を合わせる機会も増えた。でも、あの頃の空回りが、まだ私の中に影を落としている。「怖い人」というイメージは、簡単には消えないのかもしれない。
キッチンの引き出しには、スパイスの小瓶たちがいくつも整列している。ターメリック、クミン、コリアンダー。それぞれの配合を、私は几帳面にノートに記録している。「完璧なブレンド」を求めて、もう何年も続けていること。
家族は私のこの趣味を気味悪がっている。夫は「いつも同じ味なのに、なぜそこまで書くの?」と首をかしげる。娘の美咲は「ママって、仕事と同じ」とため息をつく。確かに、スパイスノートの記録は、業務報告のように正確で無機質かもしれない。
先日、オフィスの共有スペースで昼食をとっていた時だった。佐々木さんが、お弁当からカレーの香りを漂わせていた。「手作りなんです」と照れくさそうに言う彼女に、私は思わず聞いてしまった。「スパイスからですか?」佐々木さんは課長でチームリーダーという立場でありながら、珍しく気さくな人だった。在宅勤務の時も、チャットではやたらと絵文字を使い、メンバーを困惑させているという噂がある。「あ、でも配合は適当です。気分で入れてます」
その言葉に、私は少し戸惑いを感じた。
スパイスは正確に測り、配合し、記録するもの。それが私の中の揺るぎない常識だった。でも、佐々木さんのカレーからは、温かく親しみやすい香りが漂っている。
「実は」と彼女は続けた。「在宅が始まった頃、メンバーとのコミュニケーションに悩んで。メールの一つひとつに悩んでいたら、ストレスで胃が痛くなって」。その話に、私は思わず身を乗り出していた。「それで、カレーを作り始めたんですよ。スパイスって、不思議と心を落ち着かせてくれるんですね」
その日から、佐々木さんと私の「スパイストーク」が始まった。彼女は計量スプーンも使わず、手の感覚だけで調合している。「失敗することもあるけど、それも味ですよ」という言葉に、私は何か引っかかるものを感じた。
家に帰ると、スパイスノートを開いた。克明に記録された数値の横に、時々メモ書きがある。「今日は美咲が完食」「夫が二度もおかわり」。数値では説明できない、確かな手応えの記録。
翌日のオフィスで、1年目の山田さんが私に声をかけてきた。「カレーの匂いがすごくいいです」。昨夜、佐々木さんのように思い切って感覚で作ってみたカレーを、お弁当に詰めてきたのだ。
「正直、在宅の時のチャットがすごく怖かったです…」と山田さんが言う。「でも、最近のカレーの香り、なんだか優しいなって思って」。その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。
その夜、久しぶりに家族と向き合ってカレーを作った。いつものようにノートは開かず、ただ、佐々木さんの言葉を思い出しながらスパイスを加えていく。美咲が隣で宿題をしながら、「今日のは違う香りがするね」と言う。
夫が帰宅し、「今日のカレー、昔の味がする」とぽつりと言った。「昔って?」と聞くと、「そう、ママが必死にレシピを記録する前の」。その言葉に、私は立ち止まった。
スパイスノートを見返すと、最初のページには乱暴な字で配合が書かれている。計量も適当で、「美味しかった!」という感想だけが大きく書かれていた。いつから、私はこんなに几帳面になってしまったのだろう。
次の日、佐々木さんと昼食を共にしながら、私は思い切って聞いてみた。「社内の人間関係、どうやって変えていったんですか?」
彼女は少し考えてから答えた。「カレーと同じですよ。基本は大事だけど、相手のことを考えながら、少しずつ調合を変えていく。それを許容できる余裕が必要なんでしょうね」
夕方、帰り際に山田さんが私の机に寄ってきた。「カレーのレシピ、教えていただけませんか?」。その時、私は初めて気がついた。レシピは完璧な数値より、むしろ不完璧な人のぬくもりで伝わっていくのかもしれない。
今夜は、スパイスノートに新しいページを作ろう。でも、今度は数値だけじゃない。人との出会いや、ちょっとした会話、その時の気持ちも書き留めていこう。きっとそれは、私の新しいレシピになっていくはずだ。
美咲が台所を覗き込んでくる。「ママ、今日は何を入れるの?」 「ん~。一緒に考えてみない?」と答えながら、私はスパイスの瓶を開けた。香りが台所いっぱいに広がり、夕暮れの影が少しずつ薄れていく。
佐々木さんとの出会いは、オフィスにも少しずつ変化をもたらしていった。
隣のチームにいる森さんが「カレーの香り、気になっていたんです」と話しかけてきたのは、そんなある日のことだった。在宅勤務の頃、私のチャットの言葉に傷ついたと聞いていた森さんだ。
「プライベートでインスタやってまして」と森さんは続けた。「スパイスカレーの投稿をよく見るんです。でも、実際に作るのは怖くて」。その言葉に、私は昔の自分を重ねた。レシピ通りに作ることに固執し、失敗を恐れていた頃の。「私のカレーは、写真を撮るほど見栄えは良くないんです」と答えながら、お弁当箱の蓋を開けた。「でも、一緒に食べませんか?」
佐々木さんも加わって、共有スペースでの昼食は少しずつ賑やかになっていった。「私、ガラムマサラは苦手で」「でもカルダモンは好きなんです」。スパイスの好き嫌いを話すうちに、仕事の話も自然と混ざり始めた。
家でもささやかな変化が起きていた。美咲が「ママ、インスタのスパイスカレー、超おいしそうなの」とスマホの画面を見せてきた。確かに完璧な盛り付け、完璧な色合い。綺麗だねぇ……。
でも、私のスパイスノートは、もう少し違うページを求めていた。
「今日ね、みんなでカレーを食べたの」と美咲に話す。
「佐々木さんは、スパイスを目分量で入れるの。でも、不思議と心が温かくなる味なの」
「そうなんだ」と美咲が答える。
「ママも最近、ノートばっかり見なくなったよね」
確かに、私のスパイスノートは変わり始めていた。以前は無機質だった記録の横に、付箋が貼られるようになった。「森さんはクミンがちょっと苦手」「山田さんは辛いのが好き」。スパイスを通じて知った、一人一人の小さな物語。
夫が「職場の雰囲気、変わったみたいだね」と言う。在宅勤務の頃、チャットの画面を睨んでは溜息をつく私を、彼はずっと心配していたのだ。
「ねえ」と夫が続けた。「このカレー、どこかで食べたことがある味がする」 私は少し考えてから答えた。「そう、プロポーズしてくれた日の夜に作ったカレーで。あの時はね、スパイスの分量なんて気にしてなかった」
佐々木さんは言う。「スパイスって面白いでしょう?一つひとつは個性が強いのに、調合を考えると意外な組み合わせが見つかる。人付き合いも、案外そんなものかもしれません」
先日、オフィスで小さな出来事があった。山田さんの報告に目を通していた時、つい以前のような言葉が出かけそうになった。でも、カレーの香りを思い出して、違う言葉を選んだ。「一緒に確認してみましょうか?」
新しいスパイスノートには、数値だけでなく、たくさんの物語が詰まっている。佐々木さんと交わした会話、森さんの笑顔、山田さんの成長。そして、家族との何気ない時間。
美咲が「ママ、私もスパイス、混ぜてみていい?」と台所に立つようになった。失敗しても、私たちは笑って新しいブレンドを考える。完璧なレシピを超えた、確かな何かがそこにある。
スマホの中の古いチャットは、そのままにしておくことにした。あの頃の私も、必死に何かを伝えようとしていたのだから。
でも、これからは違う。スパイスのように、
時には強く、時には優しく、でも確かな存在感を持って。
片付けを終えた台所で、私は新しいページを開く。
今日は、どんな香りが、どんな物語が、このノートに刻まれるだろう。
日は落ちた。外は街灯の明かりが点灯し、住宅街にはもう人の姿が見えない。向かいの家、その向かいの家……。家の明かりがポツポツと目立つ。明日もまた、誰かとカレーを囲む時間が待っている。