れきいし会で実際に街歩きしてみたin 東村山(後編/全3編)
前回の記事に引き続きれきいし会で東村山を歩いた際の内容をご紹介します。前回は東村山市の狭山丘陵上に広がる町、廻田町を歩きました。お昼ご飯を食べてさてこれから午後部です。少しボリューミーな内容にはなりますが歩いていきましょう!!
前回の記事はこちら→
14、庚申塔
さて、お昼ご飯を食べて次の目的地に向かいます。東村山で文化財巡りをするとなるとどんな方でも必ず訪れる場所がありますので、まずはそこに向かいます。
と歩いていると道端に何やら石碑が。墓地の敷地の角っこ、ちょうど道と道が交差する辻の部分に三角形の土地が用意されており、そこに石碑が建てられています。像が不明瞭ですがこれは庚申塔のようです。
庚申信仰とは中国道教に由来します。昔のカレンダーは日付に必ず十二支と十干(じゅっかん)の組み合わせをつけていました。十二支は皆さんがよく干支として知っている「子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥」というもので、十干は「甲乙つけ難い」などで知られる「甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸」です。これを組み合わせるとちょうど60日の周期が出来上がります。その周期のうち庚と申が組み合わさる日にちを庚申の日といいます。
道教の三尸説では、この庚申の日に眠ると体の中に住む三尸という虫が体から抜け出して天帝という神様(閻魔大王とも言われています)にその人の罪を報告しに行くのだそうです。それによってその人の寿命や死後の扱いが決まるそう。この三尸説を元に江戸時代の初め頃から庚申待ちや庚申会という催しが行われるようになりました。どういった催しかというと庚申の日の夜に町中の人で集まって夜通しおしゃべりしたり、決まった時間に祝詞をあげたりしながら寝ずに夜明けを待つというものです。昔はこの催しがとても身近だったらしく、「長話は庚申の夜に」ということわざが存在するぐらいです。この庚申待ちを何度か繰り返すとお金を出し合って立てるのがこの庚申の石碑になります。
石碑を読み取ってみましょう。立像は青面金剛と呼ばれる一面六臂(顔が一つで腕が六つ)の金剛様です。残念ながらお顔が剥離していて伺うことはできませんが、腕が6本あることや持ち物は読み取ることができます。庚申塔は文字だけの文字塔やこの青面金剛を刻んだものがよく見られます。東村山では青面金剛のものが多い印象です。青面金剛の足元にはうずくまった悪鬼がいます。悪鬼を青面金剛が踏みつけることで悪い病気などを退ける様子を表しているのでしょう。さらにその下には不明瞭ですが、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿が刻まれています。庚申は申(さる)の字が入っていることもあり江戸時代の比較的早い段階から猿と結び付けられてきました。これら像の周りに建立年などの文字情報が刻まれています。左の青面金剛が刻まれたものは江戸時代中期のもので、右は明治に入ってからのものです。この地域は明治までは庚申講を行なっていたようです。
15、国宝の木造建築「正福寺地蔵堂」
さて、後編のメインのポイントにやってきました。入り口には立派な標識が立っています。「国宝 金剛山正福寺 千體地蔵堂」。そう東村山市には国宝があるのです。しかも木造寺社の国宝としては東京都内で唯一のものです。
さっそく境内に入ってみましょう。まずは門から。こちらの門も実はかなり古いもので、江戸時代、元禄14年(1701年)に作られたものになります。建築様式は禅宗様の四脚門です。建築様式などの細かい説明は後編の後に書く東村山を歩く特別編の方で細かく説明したいと思います。こちらの門は東村山市の指定文化財になっています。
門から中に入って真正面に見えるのが国宝の千体地蔵堂です。屋根の反りが非常に特徴的ですね。この反りも禅宗様の大きな特徴です。
こちらも建築の様式は禅宗様で、日本の禅宗様建築の中でも禅宗様の特徴を色濃く残す建築として高く評価されています。何度か解体修復が行われていて屋根を支える尾垂木尻(おだるきじり)から墨書が見つかったことから応永14年(室町時代)に建てられたことがわかっています。細かい説明は特別編にて詳細に書こうと思っています。お楽しみに。
この千体地蔵堂は古くから当地にあることから周辺の広い地域で信仰されており、狭山三十三ヶ所霊場の一つとしても数えられています。また、名前からも分かるように千体地蔵の信仰の場としても知られています。その信仰は中にある小さな地蔵の木像を持ち帰り願掛けをし、願いがかなったらもう一つ新しい地蔵を添えて二体の地蔵を返納するというもので、おもに近世に行われていたようです。その結果として現在も地蔵堂の中には892体の地蔵小像が残されています。
16、貞和の板碑
この正福寺にある文化財はこれだけではありません。境内には石造物も多く残されています。その中でも代表的なものを一つ見ていこうと思います。東村山市には多くの武蔵型板碑が残されています。前編や中編でも破片となった板碑の一部が登場していました。そうした板碑の中でも非常に大きいものがここ正福寺には残されています。それがこちらの貞和の板碑です。こちらの板碑はなんと都内では最大の大きさとのこと。
こちらの板碑ですがその大きさゆえなのか、一時期は橋の石材として再利用されていました。今は橋自体はコンクリートに置き換わっているのですが、経文橋という名前が残されています。その頃の話としてその橋の板碑を動かすと疫病が起こるという言い伝えがあったのだそう。橋を利用する人の中には経文を踏むのが恐れ多いと思う人もいた様でこの橋の横に木の橋をかけたことがあったようです。その際にも赤痢が流行り、すぐに橋をとり外したんだとか。また、橋をコンクリートに置き換えるために板碑を外した際も赤痢が流行ったとのことで、その災いを避けるために正福寺に移設され現在の様に祀られるに至ったみたいです。非常に興味深い話ですね。
17、北山公園菖蒲まつり
次のスポットは文化財ではないのですが、ちょうど歩いた際にお祭りが行われていたのでよってみることにしました。狭山丘陵の一部八国山の裾野に東村山では数少ない田園地帯が広がっており、公園として整備されています。そこではお米ではなく菖蒲が育てられており、菖蒲が咲くこの六月の時期に盛大にお祭りが行われます。子供の頃はこの公園に来てよくザリガニをとっていました。
久しぶりにこの公園に来たのですが、公園には外来生物ポストなるものが設置されていました。私が子供の頃にはこれはありませんでした。これも時代の変化だなと関心。
菖蒲まつりに関してはこちら→https://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/tanoshimi/yoka/omatsuri/syoubu.html
18、東村山ふるさと歴史館
次に訪れたのは東村山の郷土歴史館、ふるさと歴史館です。東村山の歴史や郷土に関わる展示を見ることができます。ここにはこれまで見てきた文化財に関しての展示もあります。例えば、瓦塔の原寸大レプリカ、正福寺地蔵堂の精巧な模型、貞和の板碑の原寸大レプリカなどさまざまな資料を見ることができます。前編で歩いたA遺跡の出土品もここで見ることができます。残念ながら展示室の撮影には許可が必要とのことで外観だけの紹介になりますが、ある意味ではこれまでのルートのまとめにもなるので行くことをお勧めします。また、企画展示室では入れ替えで展示が企画されていて時期によって展示が変わるほか、体験企画なども行われていますのでそちらも是非。入場は無料です。
19、徳蔵寺板碑保存館
次は後編もう一つの目玉スポットです。歴史館から歩いて程なくのところに徳蔵寺というお寺があります。そこには板碑保存館という施設が。
こちらはお寺の受付に行って大人一人200円を払うと入場することができます。中に入るとお寺に関係する宝物などが並んんでいるのですが、私が紹介したいのは板碑保存館の2階です。階段を上がって二階に上がると見えてきたのは、全面に板碑が並ぶ部屋!なんじゃこりゃ〜。
大小さまざまな武蔵型板碑が並べられています。これはすごい。そしてこの板碑群の中核をなすのが階段登って正面に立っている「元弘の板碑」です。
この元弘の板碑は元弘三年(1333年)に建てられた板碑です。1333年に鎌倉幕府に攻め入った新田義貞方の戦死者三名を供養するために立てられたものだとされています。太平記の分倍河原の戦いや藤沢での戦いを裏付ける貴重な資料とのことで国の重要文化財にしてされています。この板碑かつては八国山の中腹に立てられていたのですが、重要な碑ということもあり今ではこの板碑保存館にて保存されています。この記事を書いているつい先日までちょうどテレビでは「逃げ上手の若君」が放送されていたばかりですが、ちょうどアニメ1話目と同じ時系列の実際の内容を裏付ける資料とのことで非常に貴重に感じます。
この板碑保存館にはこのほかにも東村山市指定有形民俗文化財の板碑、比翼碑のほか、市有形文化財の獣脚付蔵骨器などが保存されています。石造物好き、板碑好きの方は必見の施設となっています。
20、久米川の富士塚
さて、だんだんと足も疲れてきたので東村山駅方面に向かう形歩いて行きます。その前に一つだけ徳蔵寺の近くのスポットを見て行きましょう。東村山市近辺にはいくつか富士塚が存在していますが、その一つがこの徳蔵寺から程なくのところにあります。それがこちらの久米川の富士塚です。
富士塚というと品川などで見られる富士山の溶岩を使用したものなどを思い浮かべますが、東村山や所沢市で確認できるものは写真のように土を使ったこんもりしたものが多いです。久米川の富士塚は明治時代に作られた比較的新しいもので、同時期に建てられた石碑が塚上にいくつも建っています。
21、旧鎌倉古街道と牛頭天王坐像
さて、駅に向かって帰路に着こうと思います。ただ、ここから駅に帰る道端にもいろいろな文化財があるのが東村山。少しだけ覗きながら駅へ向かいます。まず、はこの帰り道。この道自体も重要な過去のレイヤーなのです。この道は旧鎌倉古街道の一部が残ったものだと考えられる場所です。旧鎌倉古街道は鎌倉時代に鎌倉と関東の各地を繋いだ重要な街道でした。鎌倉時代にはこの道沿いに久米川宿という宿場町が営まれ、非常に発展したと言われています。鎌倉時代の終わりにはこの道を新田義貞が進軍し鎌倉へ攻め入りました。その痕跡として先ほど紹介した元弘の板碑がここ東村山に残されました。室町時代には鎌倉時代にできた建築様式禅宗様を伝え鎌倉街道沿い多くの寺社建築を残しました。そうしてできたのが正福寺地蔵堂だと言われています。また、秩父からは多くの緑泥片岩を運び多くの板碑が造られるきっかけになりました。つまり、この街道は東村山に多くの歴史を引き込んだとても重要な道なのです。そのほんの一部が今現在も歩ける道として残っているというのは本当に驚きです。まさに過去のレイヤーそのものだということができるでしょう。
その鎌倉街道沿いにも石造物が残されています。熊野神社から駅方面に鎌倉街道を歩くと白山神社という小さな神社にたどりつきます。この境内にはとても珍しい石造物があります。それがこの牛頭天王の坐像です。
牛頭天王はかつて京都の八坂神社などに祀られていた疫病の神様で、由来が仏教でも神道でもない由来不明の不思議な存在としても知られています。そうした不思議な存在だからなのか像として残っているものは非常に珍しいのだとか。牛頭天王の石造物は主に文字塔としてはさまざまな地域に建てられている印象が、確かに像として残っているものはなかなか見たことがないです。また、その珍しさだけでなく非常に優れた丸彫りの石造物のクオリティだけとっても一目置かれる存在に感じられます。
そうした珍しい牛頭天王坐像ですが、実は以前からこの白山神社にあったわけではなく、明治時代の初め頃に近くの井戸の中から出てきたのだそう。発見のエピソードも非常に驚きです。
22、駅前に残された石塔群
さて、やっとのことで東村山駅にやってきました。長かったレイヤーを巡る旅もいよいよ終盤です。最後に東村山駅のすぐ近くにある石造物スポットに行って終わりにしましょう。東村山駅は西武線新宿線の駅で駅の周辺はマンションなどが立ち並び府中街道などの大きな道路も通っています。そんな中ぽつんとある空き地に石造物が並んでいます。周りの高い建物などと比較すると非常に異質な空間に感じられます。東村山の場合この様に石造物のためにある程度広い土地が確保されていることが多いのが驚きです。
生活の中に溶け込んでる印象があります。この石造物群の中で一際注目したいのが一番左側の馬頭観音碑になります。小さいですが文字情報がみっちり。
こちらの馬頭観音はふるさと歴史館にもレプリカが置かれている碑です。馬頭観音の立像の右側に見える百万遍惣回口佛は百万遍念仏講(百回お経を唱えるために結成された会)に関する記述で南無阿弥陀仏を百回となえ、参加者全員が自他共に成仏することを願うという意味があります。そのことからこの碑はこの念仏講の願いのために建てられたものであることがわかります。下の部分を読むと右西は山口(所沢)、右北は川越、左東は江戸、左南は大山(神奈川県の伊勢原方面)を指し示している道標になっていることがわかります。江戸時代石造物にはよくあることですが本来の建立目的の内容+道標という構成はよくある構成です。この碑はそんな一例の中でも非常に綺麗にまとめられた石碑だと感じます。
この碑の他に石造物群には馬頭観音二基と庚申塔が建てられています。庚申塔は先ほど紹介したものもそうですが、東村山では笠つきのものが非常に多く残されていて、この地域の庚申塔の傾向なのかもしれません。
最後に
ということで、後編は少し足速にはなってしまったのですが東村山駅に無事到着することができました。後編では前編、中編に比べると既に東村山の中でも知られてるスポットを多く回りました。しかしそういった文化財も歴史のレイヤーの一つです。特に今回は旧鎌倉古街道がもたらしたレイヤーをより感じ取ってもらえたかなと思います。やはり道は面白いですね。私たちが今日歩いた道もいずれは消えたり新しくなったりするのでしょう。そうやって変化していく地図の中にさまざまな文化が折り重なっていくのをまた誰かが私たちの様に歩き巡るのかもしれません。
最後に東村山駅でみたものを一つ紹介して終わろうと思います。東村山駅の東口にはコロナ禍にコロナで亡くなった志村けんさんを慰霊する銅像が立っています。
東村山は志村けんさんの生まれ故郷として知られています。その志村けんさんが亡くなった際にこの場所に献花台が設けられ多くの人が献花に訪れました。そして、同じ場所に2021年に設置されたのがこの銅像です。今回の旅ではさまざまな時代のモニュメントを見てきたわけですが、それらのモニュメントもこの銅像のように多くの人の思いがあって造られたものなのです。そう考えるとこの記事で紹介してきたものが急に現代に生きるわたしたちと地続きに感じられないでしょうか。過去は過去なのですが、それは過ぎ去ったものではなく今も生きる何かなのかもしれません。
参考書籍(※ふるさと歴史館で購入できます)
『東村山ふるさと昔語り』、平成19年4月、発行:東村山郷土研究会
『東村山の石仏と信仰』、昭和57年5月、著者:小林太郎、発行:多摩石仏の会
※『特別展 正福寺展 –国宝・地蔵堂建立600周年記念–改訂版』、平成21年1月、編集・発行:東村山ふるさと歴史館
※『鎌倉街道と中世のみち −狭山丘陵の中世–』、平成31年3月、編集・発行:東村山ふるさと歴史館
『東村山市文化財調査報告 第一集 東村山の板碑』、昭和60年3月、発行:東村山市教育委員会(徳蔵寺で購入できます。)