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『傷を愛せるか』
書籍のレビューはChaptersの本のメモをもとにどうせならもう少しちゃんと頭を整理しておくか、という気持ちがベースにあるので、読んでる前提で話を進めがちだなって読み返して反省した。その反省を生かして6月の1冊のこの本はせめてアウトラインを載せておこうと思う。
たとえ癒しがたい哀しみを抱えていても、傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷の周りをそっとなぞること。過去の傷から逃れられないとしても、好奇の目からは隠し、それでも恥じずに、傷とともにその後を生きつづけること―。バリ島の寺院で、ブエノスアイレスの郊外で、冬の金沢で。旅のなかで思索をめぐらせた、トラウマ研究の第一人者による深く沁みとおるエッセイ。
主旨からは逸れるが、Chapters意外な本と人の出会いがあって面白い。興味があれば調べてくれと思うが、基本的に月に1冊本が届いて20分くらいオンラインでユーザー同士で本の話をする機会が得れる。
話をしてから連絡先を交換するか決めるシステムなのだが、交換するにしてもしないにしても話の中でおすすめの本を教えてくれたりするからKindleの欲しいものリストは増える一方で、それはそれでありがたかったりする。(4ヶ月に突入してなかなか女の子とマッチしねぇなぁって思ってたけど、今ちゃんと調べたら基本的にはマッチングサイトのスタイルなんですね。)
選ばれる本のボリュームもカフェで数時間で読み終えれるくらいでまぁ適度にちょうどいい。(1ヶ月に1冊届いて4ヶ月してるならなんかレビューの数が少なくないかと気がついた人はとても良い観察力をお持ちだ。)
さて本の内容に戻ろう。トラウマ研究をしている宮地さんのエッセイである。アウトラインを読むだけだと、内容がぼやっとしてるような印象を受けるが、エッセイなんて思考の寄せ鍋みたいなものなのだからどうしようともぼやっとしてしまうものなのかもしれない。
風景の描写のディティールが細かい
これが私のメモの一番上に残されていた。そしてこのディティールの細かさが情景の共感を呼ぶ。一番初めの話にも通じるのだが、性格がら、仕事がら世界をよくよく観察している人なのだろう。
その中でも特にわかるっと共感したテキストがこちら
そういえば、スキューバ・ダイビングをしていていちばん好きだったのも、ときどき水面を眺め上げて、波打つ光の広がりを頭上全体に感じることだった。
ダイビングした人ならわかってくれるだろうか、深い海底の底には魚やら(潜る場所によっては)珊瑚やらが煌めいていてそれはそれはファインディングニモの世界なのだが、そんな世界が目の前に広がろうとも、私もこの海面を見るのが一番好きだった。
本当に光が綺麗で、キラキラしてて、ボンベが無限にあるのなら何時間でもぼーっと眺めていられる。
この描写の後にダイビング中に死にかける話もあるが、その時の気持ちもなんとなく理解できる。私の死の第一希望はいつものように寝たらうっかりそのまま死ぬことだが、それが叶わないなら苦しみを超えて、そこに喜びさえあるような気持ちを体感して死にたいものである。
反芻1 : Y字路
この本を読み終わってから反芻するように思い出したセンテンスが2箇所ある。Y字路の話と、宿命論と因果論の話である。
横尾忠則さんのY字路を観たことがあるだろうか。現代アートを観てすげーって思わず呟いたのは横尾さん意外いないのだが、それくらい観た人を圧倒するパワーが彼の絵には絶対的にある。Y字路はシリーズもので、いくつかバージョンがあるので、必ずしも絶対とは言い切れないのだが、その絵を見た時、2つの道先の見えなさ具合に少しゾッとした記憶がある。
人生とは案外、毎日のささいな選択、それ自体はどちらを選んでも大差がないような選択の積み重ねにによって軌道が延び、方向性が決まっていくものなのではないだろうか。つまり人生とは、十字路ではなく、Y字路の連続によって形作られていくものではないのか。
どちらもある程度の割合で共感する人がいそうに思えるが、私はY字路派である。一応言っておくが、横尾さんのY字路が好きだからといった理由ではない。
そのほうが気が楽だからだ。
映画のように青いコードか赤いコードか間違えれば死ぬみたいな選択肢を人生で経験すると考えてごらんなさい。しんどすぎる。
どうでもいいことをちょろっと選び続けた結果なんかここまできちゃった☆の方が明らかに気楽だ。それに、実際私の人生そんな感じもする。
宿命論と因果論の話にも通じるがある程度のまぁたどり着いちゃったものはしょうがないが人生をサバイブするコツだと思っている。さて、皆さんはどうだろうか。
反芻2 : 宿命論と因果論
過去を受け入れ、同時に未来への希望を紡ぎつづけるには、おそらくほどほどの無力感=宿命論と、ほどほどの万能感=因果論を抱え込むことが必要なのだ。
かつて私は因果論者だった。でも知ってしまったのだ、どうしようもないことだってあるんだよ、社会。
自分だけのことならある程度の因果を支持できるが、私を超えた世界はマジでどうしようもできない。そして、単位が大きくなるほど、個人ではますますどうしようもない。
六本木の森美術館によく行くのだが、1階下(と言っても地上52階である)に東京スカイビューという展望台がある。そこから見る地上の人々は本当にチリのようだが、その数は膨大で、それだけで地球の人間の多さにおえっとなったりする。
しかし、同時に私も地上に降りればチリの1つでしかないんだわとなんだか変な諦めがつくのである。頑張っちゃう人はおすすめです、東京スカイビュー。
見ていること。その幸せを祈ること。これは、対人関係において最終的な愛の態度だと思う。
タイトルにした一文は引用であるが、宮地さんの言葉ではない。解説の天童荒太さんの言葉である。天童さんと言われると悼む人のカバーの舟越桂さんの作品を思い出しますね。余談です。
このテキストに対してのもメモをそのまま載せるとこうだ。
例えば親と子の関係(天童さん)
神との関係もこれにあたるのか?
たとえ誰にも愛されないとしても神からは全ての人が愛されていると捉えることもできる。生まれた瞬間から人間は愛されている。たとえ姿が見えなくても、神は見てるし、私の幸せを祈っている。その充足感を忘れてはいないだろうか。
見えないものは見えないから肯定しようもないし、否定しようもないと思っているが、これは神を信じたくなるな。信じた方が幸せそうなら信じてもいいのではないだろうか。
どうやらこの時の私はこの一文に同意したようだ。そして神を信じた方が幸せそうだとスーパージャンプな結論を持ったらしい。
読み終わって時間がある程度経った今、もう一度考えても信じた方が幸せそうだなぁと思う。信じた方が良さそうと思っているうちは信じていない気もするので、いつかいますと断言できるまでに自分を思い込ませたらそれは一つの勝利と言えるだろう。
果たして私は死ぬまでに神を信じるところまでいけるのだろうか。結論が出るのはまだずっと先になりそうだ。