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#152 山道を歩きながら。

年が明けてから、天気の良い週末に、久しぶりに山を探索に行って参りました。とても気持ちが良かったです。夏に腕を怪我してからは随分遠のいていましたが、12月に思い切って短いコースを歩いて自信がついたので、今年はまた沢山歩きたいという願いも込めて、山の麓の神社でもお詣りしてきたのです。

7年ほど前、テル坊と暮らし始めてから生活の一部となった山登りですが、始めの頃は歩いている時も、日常の瑣末なことが頭の中を渦巻いたままの状態で、とにかく頂上を目指すという形だけの登山でした。自分の休日に好きなことをしている。ただそれだけの幸せを味わうことができず、再婚のために辞めてきた病院の、同僚たちのことばかりが頭に浮かんでいました。ああ、みんな今頃、働いているのかな。夜勤のための仮眠を取っているかもな。看護師時代に比べ、肩の力の抜けた生活がスタートしたことは、喜びでもありつつも、個人的な罪悪感を強めてもいたのです。

そんなわたしの気持ちをだまって解きほぐしてくれたのは、他でもない山そのものでした。頂上に着くまでのなだらかな上り坂、急な階段、岩場、迷い道、どんな場所も自分の歩幅でゆっくりと、確実に歩いていかなければ、気持ちのよい登山にはならないと言葉もなく教えてくれたのです。

前を歩くテル坊のスピードに無理についていくこともなく、わたしはわたしのスピードで、周りの木々を眺め、風を感じ、木漏れ日を見上げながら、呼吸を整えつつ歩いていきます。さわがしかった頭の中が、いつの間にか静まり、森と一体になっていきます。

自分の周りには、自然以外の何ものもない。そんな場所にいると、まるで行者にでもなったような気分がすることもありますし、山に暮らす獣に戻っているような想像をすることもあります。時には、植物や大きな岩が友だちのようにすら感じられます。

所々で、すれ違う人たちと短い挨拶を交わします。今は皆さんおしゃれな登山ルックでばっちり決めている方が多く、それでも表情が地上とは違っています。一期一会、たった一瞬すれちがう瞬間に「こんにちは」と声を掛け合うだけなのに、なぜか懐かしい気持ちになるのは、不思議なものです。お互い、いろんなものを背負って生きてきて、今この瞬間、ただの登山者として山道を歩いている者同士、そんな気持ちになるからでしょうか。

昔、まだ小学生だった頃、仕事で忙しかった母が週末、近所の山に連れて行ってくれていました。わたしと妹、三人分のおにぎり弁当を持って出発です(父は休日も仕事で留守が多かったので)。本格的な山道に入る前に、小さな川のほとりで休憩するのが恒例で、そこには川エビやサワガニが沢山いました。裸足になって足をつけると、わたしたちの足を岩場と勘違いした川エビが寄ってきて、足をツンツンするのです。

「くすぐったいね」
妹とクスクス笑いながら、透明な水の中をふわふわと移動している生き物たちを観察しました。

女三人、細い道をかき分けながらの山登りは、今思えばかなり危ないことをしていた気もします。今のような物騒な事件が少なく、怪しい人と会う危険もあまりなかった、のんびりした昭和の時代のおかげです。わたしたちが頂上と呼んでいた場所まで行くと、その場所からは小さな集落が見下ろせました。降りていったことはありませんが、山の窪みのような場所に小さな村があり、人々が生活しているのを眺めることができたのです。
「あ、猿がいるよ」
村の中を歩き回っている、猿まで発見したこともありました。

それから何十年も経ち、母は50代になってから早期退職で仕事を辞め、友だちと一緒に沢山の山を登りました。富士山や屋久島にも行きましたし、旅行のツアーでスイスのアルプスにも登りました。
「仕事辞めてから、いろんな山に登ったねえ。エベレストにも登ったし」
今は認知症で70代後半になった母が、散歩の途中でいつもその話をします。本人が頑なにエベレストに登ったと言い張るので(アルプスの言い間違い)、家族はもう訂正することはしません。

わたしが山登りを始めた最初の頃は、母が使うことが出来なくなった登山用具を使っていました。今は自分の物に買い換えて、大事に使っています。専門の服や靴は値段が高いのですが、やはり使い勝手は良いので、よいコンディションを保って登山を楽しむことが出来ます。

山道を歩いていると、子どもの頃の思い出が不意によみがえったり、反対にこの先の人生に思いを馳せたりすることもあります。地上にいる時と違って、山での物思いはなぜか気持ちが悲しくならず、心の重荷が軽くなっていくような感覚があります。

山登りを楽しめるのは、よくて後20年?くらいかな。そう思うと、一回ずつの山歩きが、とても貴重な体験に思えてしまうのです。





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宮本松
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