そしてゲラゲラ笑って告知するイタリア人腫瘍内科医
生検の針がうまく入らなかったので、翌週の同じ日にやり直しになった。そしてその翌週、いよいよ腫瘍内科のドクターによる面接があった。前回書いたように、検査しながら技師ドクターが喋っちゃっているので、がんだということは実はもうわかっている私。
でも今回は正式に医者から告知されるのだ、しかもイタリア語で。いくら能天気な性格の私でも緊張しないわけがない。と言っても、その時、私の頭の中を渦巻いていたのは「イタリア語で治療方針やら難しい専門用語を言われて、わからなかったら大変だ」という心配で、ステージ4で余命は半年です! というような死刑宣告される可能性については、思いついてさえいなかった。
ごめんね、サラ
正確に理解したかったから、娘のサラについてきてもらうことにした。日本人の私とイタリア人の夫の間に産まれた彼女は、イタリアで生まれ育ったので母国語はイタリア語だ。しかも私が小さい頃から厳しく鍛えたので、日本語もペラペラ。だから難しいイタリア語を使う場面では、大人になった彼女を私が頼らせてもらう場面が増えているという頼もしい娘だ。
でも、たった23歳の彼女が、母親のがん告知を通訳するのはどんな気持ちだろうと考えたら、とても申し訳なく、切ない気持ちになった。普通なら、私が夫と普通に仲良しだったなら、夫について来てもらうのが当たり前なのに、あいにく私と夫は数年前から別居している。だから23歳の娘にこんなヘビーなことをさせる羽目になってしまった。
「今度病院に行く日に、一緒に来て欲しいんだけど」。キッチンで並んでお皿を片付けながら、顔を見ずにお願いした。
デイ・ホスピタルへ
2023年1月24日。
ピエモンテ州がんセンターの、デイ・ホスピタルという場所は、日帰りで抗がん剤を投与する外来セクションだ。ウィキペディア英語版によると、手術なんかも含め、入院をなるべく短くするというのが最近の欧米医療のトレンドだそうで(私の乳房全摘手術も1泊だった!)、だからこのがんセンターのほとんど全ての患者さんは、デイ・ホスピタルで日帰り治療をしているというわけだ。
そのデイ・ホスピタルの中にたくさんの診察室があって、私はその一つに呼ばれて行った。ノックをしてドアを開けると、そこには40代前半ぐらいの男性医師と、同じぐらいの年齢の女性医師、そして最初に私を診察してくれた胸腺科の優しい女の先生が座っていた。
TikTokはダメだよ。笑
ブォンジョルノ! 私はドクターxxです、はじめまして、と各自が挨拶を交わした後で、胸腺科の先生は、「頑張って」とでもいうように私の肩に軽く触れてすぐに行ってしまった。残った腫瘍内科の専門ドクター2人が早速喋り始めたのだが、早口なのと難しい言葉の羅列なのとで、よくわからない。私の「???」という表情を察して、女性ドクターがもう一度、大きな声でゆっくり話してくれる。耳は聞こえているから、大きな声は必要ないんだけどな、と思いながら、録音してもいいかと聞いてみる。がん細胞の種類の話なんかしているから、娘だって簡単には訳せそうもないからだ。すると
「通常では診察の録音は禁止されてますけどね、YouTubeやTikTokにアップしなければいいですよ、ワハハ」とガリッツィア医師。後でわかることだが、彼が私の主治医として最後まで面倒を見てくれることになる。録音許可を得たので、難しい内容は後でゆっくり聞き直すとして、その場で分かったことは
なんとがん治療は全てタダなイタリア
ー左の胸に2センチの悪性腫瘍があること。
ー転移などの有無は、これからPETなどの検査をして確認すること
ーPETの結果にもよるが、恐らく、最初に5ヶ月間抗がん剤治療をして、その後で手術になるだろうということ
ー抗がん剤をするといろいろな副作用がでるけど、髪の毛はほぼ確実に抜けると思った方がいいこと
ー治療にかかる費用は、手術も入院も全て無料であること
イタリアでは、がん治療は全ての人が無料だというので驚いて、「でも、私はイタリア人じゃないですよ、永住許可証はあるけど、イタリア国籍じゃないです」と言ってみた。
イタリアに28年住んでいる私でもイタリア国籍が持てないでいるのは、日本政府が二重国籍を禁止しているせいだ。イタリア人と結婚して、子供も産んでイタリアの少子化問題にちょびっとだけでも貢献している私が、イタリア国籍を取得しようと思えば簡単にできる。イタリアは日本に継いで、少子高齢化問題が深刻な国なのだ。でも、それをすれば日本から日本国籍を剥奪される危険があるという。一度失った日本国籍を戻すには裁判などをしてとても大変らしい。国籍がなければ、日本に帰国する時も外人枠で入国して、滞在許可証を申請したりするハメになってしまう。世界では二重国籍を認めている国が主流で、日本のように二重国籍を認めない国は少数派だそうだ。
ガソリン入れてればOK?
「そうですか。でもシニョーラ、イタリアでガソリン入れてるでしょ?」とドクター。 は?? シニョーラとはイタリア語でミセス、という意味で、会話で使った場合は、奥さん、というような呼びかけ語だ。
「ガソリン入れたり、買い物して税金払ってるでしょ? だったらがん治療も無料ですよ」という。一番最初の診察時に、10分間で200ユーロ支払った私は、これからの治療にいったいいくらかかるんだろう、と心配だったけど、完全無料とはすごい。イタリアの多くの病院は設備が古くて貧乏くさくて、日本のピカピカで立派な病院に比べると大丈夫?と心配になる部分もあるんだけど、必要なところに予算をかけているということなのかもしれない。貧乏人でも老人でも外人でも、みんなが平等に安心して医療を受けられるということ。少なくとも、命に関わる深刻な病気では。
がん告知よりもショックだった髪が抜けるよ告知
「だいたい2回目の投与後に髪の毛が抜け始めます。ごそっと抜けるのは少しショックだから、あらかじめ剃っておくのをお勧めしますよ」と女性医師が少し、気の毒そうな表情で説明してくれる。髪の毛が抜けたせいで精神的なショックを受ける人のためのカウンセリングもあるし、ウィッグの購入費用も州からの援助が出るので、調べてみてね、という。
そうか、髪の毛が抜けるのか。ある意味、がん告知よりもショックだな、と思っていると
「でもね、今から5ヶ月治療して夏には抗がん剤が終わって、そしたらすぐに生えてきますから、クリスマス頃にはもう髪の毛ありますよ」と女性医師。
「抜けた後に新しく生えてくる髪は、リッチ(クリクリの巻き毛のこと)が多いですよ」とガリッツィア先生がお茶目な顔で言うので、「え、私のような直毛でもですか?」と聞き返すと「前に日本人の患者さん担当したことがありますけど、そうだったと思いますよ。残念ながら金髪にはなれないけどねー」ガハハ、と笑う。
こんなふうに明るく、爆笑の中、私のがん告知面接は終了した。当面気になることは、来月早々にも始まる抗がん剤治療に備えて、早くウィッグを買いに行かなくちゃということ。そして日本料理の講師として私が働いている料理学校の、夏まで埋まっているスケジュールを誰に代わってもらうかということだった。転移とか、そういうもっと深刻な心配は、PET検査をしてみないことにはまだ、わからないのだった。