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「さらけ出す」という文学のありかた:『苦役列車』の思い出

 2010年下半期の芥川賞は、『苦役列車』で受賞した西村賢太の「風俗に行こうと思ってた」というセンセーショナルな受賞コメントもあり、大々的に報じられた。「『中卒・逮捕歴』ありこそわが財産」と語る西村に対して、『きことわ』で同時受賞した朝吹真理子は大叔母に『悲しみよこんにちは』の翻訳をした朝吹登水子がいるなどの文学一家で育ったという、対照的な作者のキャラクターもその話題性を増幅させた。なかには「美女と野獣」などという表現をしていたメディアも見かけたほどである。

 

 高校2年だった私も受賞作掲載号の『文藝春秋』を購入したが、人間の奥底にあるどす黒い闇を「さらけ出す」、西村の激しい文体に、興奮とも恐怖とも形容しがたい衝撃を受けた。

 著者の分身であろう主人公の北町貫多は父親の性犯罪により自らの前途に絶望し、アルファベットもすべて覚えぬまま中学を卒業すると、10代のうちから日雇い労働に従事し、わずかな日銭を頼りにその日暮らしを続けていく。それでも年相応かつ、人並みに友人や恋人を求める貫多の姿は人間くさくもあり、軽薄な趣味の女子大生にさんざん悪態をついた挙句に、別れ際に女友達を紹介してほしいと懇願する姿は滑稽さすらにじませる。貫多の「業の重さ」に、読者である我々の感情はとめどなく突き動かされていく。

 「ええかっこしい」というような言葉があるが、『苦役列車』を含めて西村作品はそうした言葉とは全く正反対の位置にあった。人間の内側に隠された弱かったりダメな部分をこれでもかというほどにぶちまけ、私小説という形で世界にさらけ出していくのだ。この弱点を「さらけ出す」ということは、文学が持つべき機能のひとつであると私は考えている。言葉に感情を仮託し、普段は目を背けたい悲しみや苦しみ、恥部や暗部を吐き出し、他人に触れてもらうという機能を、文学というジャンルは「担っている」と思うし、そうしたことを初めて学んだのは、間違いなくこの『苦役列車』である。

 

 

 『苦役列車』に勝る読書体験を得た作品は数えるほどしかない。精神に関する病気で休職し、ほとんどなんの本も読む気がしなかった際も、『苦役列車』は読むことが出来た。最初に読んだ衝撃とはまた違うものだが、あらためて読書には孤独な人間に寄り添う力があると感じた一冊でもある。

 西村は生前に藤澤淸造の「歿後弟子」を自称し、作品の復刊など、藤澤の作品に再び光が照らされるよう尽力していた。私は「一読者」という小さな立場でしかないが、平成という時代を代表する文学者として西村賢太という作家がいて、『苦役列車』という作品があったという記憶を、少しでも後世の文学史に継承できるようにしたい。

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