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【読書録】『横道世之介』『おかえり横道世之介』吉田 修一 ・著

毎春、桜の季節には四ツ谷、市ヶ谷、飯田橋沿いの外堀公園を散歩する。ここの桜に、また今年も綺麗に咲いたねって挨拶をしないとなんだか落ち着かない。

あいにくの雨で寒かったけれど市ヶ谷界隈では吉田修一さんの出身校である法政大学がこの日、入学式だったようだ。立派な高層ビルが建つ校舎の入り口にはスーツを着た新入生達の姿があった。

横道世之介もきっと法政の学生だった。世之介の居た時代はこんなスタイリッシュな高層ビルはまだなく、暗く古めかしい校舎が密集していた。私も数年遅れて受験しに行ったので知っている。

新入生の中には倉持も阿久津唯も加藤もいるかもしれないなと思う。でも、1番どこにでもいそうな世之介に出会うことは存外難しいんじゃないかしら。

小説『横道世之介』をはじめて読んだのは私の息子が4歳くらいの頃で、その後何度も繰り返し読んだ。世之介と、世之介を思い出す人々が好きすぎて、10年後に刊行された続編『続 横道世之介』を読むことができなかった。せっかく出会えた世之介が、新たに綴られた物語でどこか別人になってたら悲しい、なんて危惧を拭えなくて。

そうこうしているうちに『続 横道世之介』は『おかえり横道世之介』と改題され文庫版にもなっていた。

いろいろあった息子が、大学生になり新たな出会いの中に足を踏み出した。そんな春に市ヶ谷の遊歩道を歩いていたら、世之介が大学を卒業し、この遊歩道ではない道を歩きだして後の物語も知りたくなった。『おかえり横道世之介』を読んでみよう。ようやくそういう気持ちになった。

世之介は24歳になっていて、大学時代よりさらに頼りなくパッとしない生活をしていたけれど、元気そうだった。やはり学生の頃よりはシビアな状況もあるけれど、変わらず世之介でいた。

「善良である」

多くの人が世之介をそう感じ、そのことに多かれ少なかれ心を動かされている。

「善良であることの奇跡」

小説の中の、甲斐性がなくて優柔不断で頼りなくて、ときに図々しくて頑固で、ズルかったり怠けたりもして、ちっとも聖人君子でもない暢気でごくごく普通の若者は、なのに彼との出会いが奇跡だったかのような思いを、出会う人々に残してくれる。

何気なく撮って残してもらえてた写真のようなものなのかしら。

日常の中で撮られ、気づかぬうちにアルバムに貼られた写真は過去の私も未来の私も関係なく、その瞬間だけをあるがまま正直に焼き付け残してくれているような気がする。撮ってくれた人はこの瞬間を誰かに、もしくは未来の自分に見せてあげたいなと思ったはず。そんな優しい写真たち。

世之介はカメラを取り出すと、歩いていく隼人の姿をフィルムに収めた。この希望に満ちた背中を、桜子や親父さんにも見せてやろうと思う。そしていつの日か、この土手から同じように歩いていくだろう亮太にも。

『おかえり横道世之介』

ここには、善悪の裁きや優劣の評価が存在しない。損得の勘定もない。

ただひたすら思いやりに満ちている。言うならば、小さな、本人は意識すらしていないかもしれない世への敬意に。

世之介のような人に出会いたい、世之介のような人になりたい。どこにでもいそうな人、にもかかわらず難しい。だから、そんな願望を叶えるために、横道世之介の小説はずっと心に抱いていきたいと思う。

今年ののんびりした桜も、ようやく半分ほどが黄緑色になってきた。完結編『永遠と横道世之介』も読もうと決めた。



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