「官僚」の習性と私たちの習性
読売新聞の書評面に「ランキング 私たちはなぜ順位が気になるのか?」ペーテル・エールディ著があった。
私たちは競争やランキングが好きだ。「お前はグンマを知らない」というマンガでは、グンマの人はいつも近隣県と戦っている。埼玉県は全国から見下され、嘲笑の対象となっている。浦和の人は大宮の人を嫌い、柏の人は松戸を嫌っている。関東という地域はいかにも戦闘的な住民たちが住んでいる印象だ。
かつて(今でも?)テレビでは歌手のランキングや点数を決める番組が多かった。
だが、これらはつくりごとの世界であるのを忘れてはならない。
二時間ドラマで殺人事件が起きているからといって、実際に人が死んでいるわけではない。江戸時代だからといって、毎週、どこかの屋敷で御家人やその家中の者たちの大量殺人が行われたり、大店の商人と関係者が殺されたわけではない。
歌番組のランキングに得点が現れることはあっても、客観的に明確な基準が示されることはない。
基準不明確なランキングは「それ、どうなのよ?事実じゃないでしょ」というべきものなのだ。
しかし、官僚ほど「序列」に敏感な人はいないかもしれない。
ウェーバーの「権力と支配」講談社学術文庫にこうある。
「官僚は、より重要性がすくなく給料も安い下の地位から、上の地位にいたる『出世』を目指している。これは、官庁の階層制的秩序に対応するものである」(p.235)
「出世」を目指す官僚はランキングや人事が好きである。
役人と話すと、「あの企業は三流、あそこは二流半、なぜ二流半かというと……」と自説を展開し始めたことがあった(事実を少し修正しています)。役人という生き物は、朝から晩までこんなことが頭にあって「人としていかがなものか」と呆れたものだった。
私たちは「他人の課題」を「自分の課題」と捉えがちだ。「他人の課題」は切り捨てろというのが、アドラーの「嫌われる勇気」での主張だった。その非人間的とも言えそうな心の取り組みは、ある意味、国会中継の答弁でお馴染みの政府関係者に見られる「官僚的な態度」に通じるかもしれない。
つまり、国民・住民の生活事情など「他人の課題」は知ったことではないと切り捨てようとする官僚たちの習性は私たち庶民が最も嫌うものの一つ。しかし、なんでも点数化、序列化が好きな官僚の習性と同じ性向を私たちも持っている。
つまり、私たちの心の中には、官僚制の特徴である「非人間的」とも言える側面を毛嫌いし、「ランキング好き」という「矛盾」を抱えているのだ。
<続>