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生成AIへの基本的なスタンス


考えるきっかけ

 Xを見ていて、このようなポストが流れてきました。

 色々思うところが出てきて、引用しようかとも思ったのですが……お相手に見せるような内容でもない、独白だな、と感じたので。
 note記事につらつらと書き出しています。
 加筆も自由なので、素敵。(私は自分の考えが長くなりがちなので:笑)

 さて、生成AIの記事も二つ目です。
 一つ目は下記に。

 基本的な考え方は同じかと思います。
 もし、矛盾があったらコメントで教えていただけるとありがたいです♪
 その矛盾も、また再考する一助となるので。

 というわけで、ポストでは翻訳AIからの、機械学習及び生成について、一律賛成か反対か統一してくれよ、というふうなことをおっしゃっているとお見受けしました。

基本的なスタンス

 私の場合。
 絵も文もやる人間ですが、学習に人間機械の別なし派です。

 翻訳AIについては補助ツールである認識なので、無料でコミュニケイトする部分において何ら問題ないと考えています。

 これは絵でも文でもそうです。
 無料で、ネットにあげる。
 商業への二次創作でもやられている風習的な部分がある以上、個人への二次創作においても権利者が嫌がっていない表現や方法において自由ないしグレーゾーンかなと。
 以前にも書きましたが、ネットは公共スペースなのですが、昔からの雰囲気とか人の使い方として、自分の家の居間で友人と遊ぶ、みたいな価値観も共存していると感じているのですよね。
 そうして、自分のお気に入りの絵師ないし文師の模倣をし、見せ合いっこして遊ぶ。

 これについて厳格に全ての二次使用者、商業作二次創作者に注意して回っている人物を、私は見たことがありません。
 昨今、反AIとラベリングした人に対してやれ「アニメアイコンだ」「二次創作してやがる」等言っている人を、Xでも見ることが多くなりましたが、その人が他の二次使用者や二次創作者に、逐一リプライを送っているそぶりがない。

 これは、本当はその人自身もていのいい反撃材料として使っている、とわかって使っているのだろうと思います。

 本当に二次創作がダメ、権利関係厳守、という考えで相手に苦言を呈しているのであるならば。
 AIも二次創作物を出力する時点で使うのをやめたり、追加学習で二次利用的な(ほぼ同等物を出力している事例を見たことがあります)他者創作物を出したり、出力物での攻撃宣言している事例にも苦言を呈したりしているはずですから。
 これは、個人のでも商業のでも、同じはずなんです。
 全ての一次創作物への、二次利用・創作物へ注意喚起をしなければ、嘘です。
 そもインターネットという空間は公共の場所なので、厳密に判断してしまえば私的利用自体が適用されません。

 確かに二次創作については、権利者が目を瞑るグレーであればうるさく言わない不文律や風潮という文化が根付いています。
 返せば、権利者がやめてくれと言ったらスッとやめる気概を持っている二次創作者がほとんど、という気風でもあるとも。

 私自身も基本的には二次創作バッチこい! 派ではあるので、生成AIは自分の絵柄で色々出してみたりしたいという欲は、あります。

 しかし、現行の生成AIには課題も問題もみっちりなので、他者感情を毀損してまでやる意味や価値があるか? と自問自答するに、そんなものはちっともないのです。

 下手でも物作りって、過程込みで楽しいですし、その楽しさは現行たっぷり享受しています。
 人気作ほどには読まれない、見られないもの悲しさこそあれ(言ってて自分でも切ないわぁ:笑)。
 こればっかりは、どこを見るか、なので。
 反応してくださった方の方を見て、その方面を大事に大事にしていきたいところです。

 いつも、読んでくださったり、反応してくだすってありがとうございます。

 という、文や絵についてはそういう感じです。
 声や身体についてはまたちょっと違った考えでいます。(存在への密接度が高いので、絵や文以上に繊細な問題という認識)

表現の関わる仕事とAIについて

 人の機微によって成り立ってきた職業において、機微を模倣しえない機械を代替にする事、またそれを使って金銭授受し学習元の生活基盤となる仕事や収入の機会損失に加担する生成AIへの危惧や忌避感があります。

 また、価値観とは教育するものでもあります。

 平坦に、一律の表現で良い社会……になりる事には批判的でありたい。

 例えば映画の字幕ですが、人が一場面で読み取れる文字には限りがあって、そこは翻訳者の方が考え抜いてバランスをみます。

 直訳とは少し違っていても、ニュアンスとその読める文字数のバランスをみる。

 事例的に話すと。
 私『ソーイング・ビー』が大好きなのですが、駄洒落とか出てくるんですよ。

 映画字幕翻訳の仕事の番組で改めて認識したのですが、あちらとこちらでは風習等が違っていて、直訳すると意味がわからないものもきっとあると思うんです

 けれど、『ソーイング・ビー』というイギリスの番組などでも、ちゃんと私たち日本人が聞いて、わかる駄洒落、面白く笑えるギャグになっている。

 この前ポストが流れてきましたが、一言一句同じ英文でも、人物によって微妙にニュアンスを変えて訳されていました。

 当たり前すぎて、気づいていない人はいらっしゃると思っています。
 私も、映画字幕翻訳の方の仕事紹介番組(リアルスコープとかだったかな? NHKだったかも)観るまで、意識せずに当たり前のこととして享受してましたから。

 ちなみに、吹き替えはまた翻訳の方向性が微妙に違うらしいです。

 というように。
 文化などが違っても私たち視聴者が「イミフw」とか言わないで済むのは、翻訳者の方の資質と、先人の教えや経験値から育てた力量によるものなのだろうと考えます。

 この、人材という宝。

 これを毀損してはいけないのではないか。

 文字も絵も、声も身体からなる演技も。

 日本人は圧縮するのが好きです、けれどそれによって生じた時間すら隷属的に仕事に費やしてしまう。

 好例(というのもおかしい話ですけれど)が、図書館司書の非正規雇用です。
 専門性が求められる職種であり、点字やレファレンスサービス等提供してもらえます。
 文化の担い手が育つ場所、知識の泉であれというべき場所で、その経験の継承断絶が進んでいます。

 上記の例は人材軽視の例であり、AIが関わることではありませんが。
 軽視する以上は、いろいろな分野の、必要な経験値という部分で、AI代替はおこってくるだろうと個人的に考えています。

 果たして、経験値をAIにだけ積ませるので本当にいいのでしょうか。
 勿論機械に代替させても問題のない部分は、存在すると思います。
 けれど、全てにおいて問題ないのでしょうか?
 私は疑問に思っています。

AIにも適材適所をしてほしい

 どうせ使うならば。
 AIに仕事の下地を補助してもらい、給金はそのままに、プライベートタイムが増えるような使い方がいいなと思います。

 人材の安易なAI代替をし、AIの上げてきたもののチェック等でいっそう仕事が増える、給料は据え置きかAI分マイナスにし悪化……そんな使い方にならぬように、していってもらいたいです。

 その点でいけば、今の生成AIは非常に危ういと感じています。

 平坦に使う、一発芸的に使うというか誰かをターゲットにし愉快犯的に使う、という事例が野放しになっている。

 全世界的な著作物に抵触していないか、一個人では判別不可能になっている。

 仕事内容の機械的か人肌的かなんていう部分を考慮せず、漫画もAI翻訳で! とか考える人がいる。

 表現とは何か、というところとは別ベクトルで表現方面への使用が増え始めている(もしかしたら単純に、元からあったそういう視点が表面化しただけかも知れませんが)。

 安易な排除も駄目だと思います。
 多様性というならば、機械もまた多様の一つなので。

 けれど最低限、カテゴライズはされてほしいです(手製と偽る等、あえて混同させるような使用法は、フェイク動画などの事例でやりたい人が一定数いるとわかっているので、区分けやラベリング必須と考えます)。

 人の温もりの根幹的なところを、AIに明け渡していいのか。
 それに慣れた人を出力し続ける世の中でいいのか。

 機械と人の境目。

 また用途や目的。

 何にどう使う為か。

 使う側の人間の、人間への理解が試されているのかもとも思いながら。
 人とAIとの共存しやすい社会が、形作られていくことを願っています。

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