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生成AI(特にイラスト)について思うこと


発端

「私は既存作設定や名称を再解釈したんです全て! 世界観も練りに練りました! 苦労したんです! オリジナリティの塊! だから傑作だし万人に評価されるべき!! なろう? あんなテンプレばかりの同じような作品群はクソ!!」
 って叫んだ上に他者からの低めな評価を「貴方は読めてないんですよ馬鹿だから」って言ってる小説創作者が、画像生成AIに忌避感ある絵師に「自身の創作への労を思うより、画像生成AI受け入れろ」とも言っている。
 あまつさえ画像生成AIに課金してまでイラスト出力している。

 というのを聞いた。
 まじ? と思ったついでに、そういえば「画像生成AIについて自分の考えを書いてみようかと思ってます」みたいに書いたことを思い出したので、つらつらと書いてみようと思う。

 ちな私の、上記主張へのツッコミは「なら自分も他者評価や考えを受け入れないと、理屈通らないって理解できるでしょうに」だ。

画像生成AI受け入れろ問題の切り分け その1 評価と考え

 画像生成AIへの忌避感は、上記の話でいくと「他者からの低めな評価」だ。
 なんら、労力の話とは関連性がないと言ってもいいくらいだと思う。
 それとこれとは別の話だ。

 まず、絵師の個人的感覚や考えを受け入れない以上、自身の「他者からの低めな評価は相手が馬鹿」という仮定を基点とした「他人の低評価は正しくないと考えること」も「自身が他者創作物をクソと感じること」も受け入れてはもらえないのは自明の理とも言えるだろう。

 これと同じ話で、やはり画像生成AIについても、ただの感情論だけで他者(画像生成AI推進論者)を叩いて回ったりしている部類の人は、実は画像生成AI規制を唱えている人にも、大抵嫌がられている。
 逆も同じで、ただの感情論だけで他者(画像生成AI規制論者)を叩いて回る人は、画像生成AI推進派にも、大体迷惑がられている。

 きちんと論拠を持って意見を表明している人同士で人格攻撃まで伴い争っているのは、あまり見ない。
 とはいえ、私とてAIではないので全世界を巡回できる訳じゃないから、見えていないだけかもだが。
 兎も角、大抵の場合は相手を馬鹿にした単語を使う感情的なポストが大体お互いの意見を毀損し合っている。
 ように第三者からは見えている。

 そしてこれは労力でなく、個人的な感覚や考えの話で、全くぴたりと同じ人など存在しないと言ってもいい。
 いたら生涯の友だし、大事にした方がいい部類の話だ。
 逆を言うと、早々意見など合うものではないし、意見が割れるのは当たり前だ。
 その中で、相手の言葉から有益な情報を見つけ考えをブラッシュアップする
 中間層みたいになっている人は、大抵その末に今はどっちが良くないだの言う時期じゃないな、と思って口をつぐんでいるんじゃないかなと、個人的には考えている。
 ただ両極端な過激派は迷惑だな、と愚痴っているというか、そんな意見を言う人もいたのはいた。
 私もどちらかというと両方の過激派が一番邪魔、と端的に言ってしまえば考えている。

 建設的な意見だったり、技術的にどの部分がどの問題をきちんと処理しようとして実装されたかなどの情報が流れてこない、現状の公開されたり販売されている画像生成AIのどの部分が問題なのかというのも流れてこない、お互いがどの意見を尊重しようとしているのかというのが見えてこない、というのがその理由だ。
 これもまた、私の観測不足の部分が多大にあるのは自覚している。

 ただ、それくらいには画像生成AIに頼らない創作をしている。

 ならなぜ今こうして考えを綴っているのか。
 個人的に、黙る時期を越えたと考えた。
 画像生成AIって無料じゃないのかよ! というツッコミがしたくなった、とも言えるだろうか。
 これは後述する。

画像生成AI受け入れろ問題の切り分け その2 労力

 前述の創作者は聞くところによると、自身の労力は認めろ、褒めろというようなスタンスに見受けられた。
 イラストひとつ描くにも、同じだけ労力が割かれていると考えないのだろうか。
 自身の小説を文章生成AIによって学習され、ちょっとした操作ないし指示により装いを少し新たにした小説が他者の手により依拠性のなくなるぎりぎりを攻めて出力され、他者によって自作品であると発表のちそちらの方が人気が出てプロ作家となった場合、された側となったこの創作者は我慢がきくだろうか? おめでとう! と、その他者を祝えるだろうか?

 これは想像にはなってしまうが、答えは否だろう。

 画像生成AIを受け入れているからできるはずだ、と考える人もいるだろうが、私は違う。
 なぜなら、テンプレだなろうだと、人が模倣し楽しんでいる場をクソと罵っているからである。

 創作はちょっとの憧れや模倣から始まる。
 昔は自身の手持ちの紙とペンで。
 今は、ネット上にプラットフォームがあるために、その場で初めての創作をする人も増えた。

 私も、初めて描いた漫画にはストリートファイターII的な世界観にオリジナルストーリーとキャラ、自身の好きな舞踏会(武闘会にあらず)や主人公大ピンチや、横恋慕されたりというエッセンスを盛り込んだ。
 それはもうはちゃめちゃだろうが、自分の思う一番の面白さを詰め込み、そして友人と読み合い(クラスで1〜2人位は同じような手合いがいた)をしたりして、とても楽しんだ。

 創作をしよう、と思い立ち実際にやり続けている人は、この模倣自体、この行為自体に忌避感は何も抱いていないだろう。
 後進の第一歩を、微笑ましくさえみると思う。

 しかし、その第一歩を踏む側の認識、それが間違われてしまうと悲劇が起きる。

 昔は模倣はアナログな手段で、アナログな空間でのみなされる行為だったが、今はネットの時代だ。
 家や自身の紙で作られたノートは私的空間だが、ネットは違う。
 半個室的であり、その実公共の場――言ってしまえばスクランブル交差点のど真ん中的でもあるので、その性質が違う。

 模倣した本人が自分の部屋の壁に模写した絵を飾るようにネットにアップしても、そこは往来、人の行き交う場所であり多くの目に触れるのである。

 何がまずいのか。

 それは、私的利用にのみ許可されている他者の権利を、侵害する行為だから。
 あれ? 二次創作溢れてるよね? と思う方もいると思う。
 全くその通りで、この辺りは後述したいところ。

 ただ、大抵の場合は二次創作の頒布の精神、ファン心理、それを使って金銭を儲けようとしていないetc.な理由を含めた空気感で、模写も特にめくじら立てられることなく(もしかしたらパトロールしてるような人がいるかもだけれど)黙認されているのが現状だ、と私は捉えている。

 この辺りは仕事にしようと考えている人は、勉強をしていると思うから割愛しようと思っているが、あまり知らない人のためにわかりやすいサイトを下記にリンクしておく。
 参考にしてもらえたら幸いだ。

生成AIと学習・研究

 確かに生成AIへの研究段階での他者創作物学習は合法と、政府からも見解が出ている。

 これは人だって五感からいろんな情報を学習して、自身に身につけている。
 創作だってそうだ。
 なら機械にだって許されて然るべきだろうとも思う。

私の考える生成AIへの忌避感の元とは

 双方の過激派は兎も角。
 中間意見層は、学習が合法なのも、現行法である程度自身の著作物が守られてるのも理解してると思う。

 ただ、使用する側の中に包丁を加害に使う人がいるように、生成AIもそういう使われ方や、予想外(人によってはあり得ると危惧していたが)に他者の時間を浪費させた過去がもう出来てしまっている。
 特定個人を狙って嫌がらせ目的で本人のイラストを学習させ、新規イラスト生成をしまくる。
 禁止となっているのに大学の論文やレポートに、出力文章を使う。

 上記は論外だが、下記だって先生側の労力を考えてみてほしい。
 学生の力づけにならなかったり(自己で論を組み立て、他者へ伝わりやすく記述する能力などの獲得にはならない)、論拠となる資料を確認せず鵜呑みにする危険性が出てくる等々。
 何らかの理由あって使ってはダメと先に伝えているにも関わらず――無視をし、結果先生方が他者の論文群を読み込む時間や睡眠時間だったり家族団欒だんらんの時間を削り使って、AIが出力したかどうかを見極めなくてはならない(さらに言えば、言いがかりにならぬよう、きちんと論拠を組んだり証拠を文章の中から掴まなくてはならないという気遣いも多分にしなくてはならない)のは、本来必要ない作業であり徒労というほかないだろう。

 想像で書いてしまったが、あながち的外れに過ぎるということもないと思う。
 何せ、ハネるの大変等の愚痴がポストとして流れてきたことがあったので。

 そして親告罪であるが故に、包丁での加害と違って、法の元でなんとかするには費用と時間がもの凄くかかるという問題があると思っている。
 アラブの石油王なら別だけれど、お金持ち以外はほぼ泣き寝入り=相手のやり逃げ、になりかねない経済状況。
 バブル期ならまだしも、そりゃ、問題視されるでしょと個人的に思う。

 手彫りの緻密なスタンプを泥棒されて、先に他人の版画として沢山世界中にばら撒かれたとして。
 警察のお世話になれない上に、その版元のスタンプは本当にあなたの物? 同一物? 証明するものは? なんてことに個人の自力で一年、二年、費やされる。
 相手の指先一本で、そう時間のかからず大量に用意できるもので、そんな事に巻き込まれる。
 規制前のボウガンで奪われたものがあるように。
 やってられないよな、と思う。

 私は自分の創作が大事だけれど、他者に広まるほど実力が及んでいないのも理解していて、だからAIで模倣だなんてことありえないと知っているから大丈夫なだけで。
 そんな具合だから、もしもAIで複製されまくったとして、普通にこれ私が本家だよ! 元祖なの、こっちも見てってよ!! もっと色々あるよ!! とやれちゃう変態☆HENTAIだから心構えが少しあるだけで。
 私以外の全やられた方はたまったもんじゃない、と思う。

 自分の腕一本で食ってこうという気概の人が沢山いる。
 実際それで食ってる人も沢山いる。
 そういう人からも、問答無用で仕事の成果すら一度ネットにあがってしまっていたら(自分であげることもあるだろうけれど、企業案件だと企業がネットにあげていることもあると思うのでこう書いています)持ってかれている。
 無料で。

 この場合は、労力、というよりかは仕事の成果物とその対価がそっくりそのまま盗まれて毀損されているともとれないか。
 何せ、もとは有償依頼だ。
 それだけの価値があなたの腕にありますよ、と他人様に認めてもらって、自分の仕事として矜持を持って世に送り出した一枚ないし複数絵だ。
 それが、無料で、持ってかれる。
 そうして、全世界(外国含む)のどこかで、意図的か知らずしてか元となったその人の明確な著作物が出力されているかもしれない。
 他人の金銭授受と引き替えに

 そしてネットには、有象無象も転がっている。
 近年、古塔つみ氏の他者権利画像からの盗用(本人は再解釈と宣っていたが、元絵が判ったりあまつさえ全体の中のいち要素ですらなく主体が他者表現のままだったのは、コラージュには一切当てはまらずオマージュとしても厳しいだろう、というのは個人的認識だ。権利関係者への許可取りもなかったようだし。金銭授受してしまっているし商業案件もあった)という、イラストレーターになりたい人による勉強不足というか権利意識の気薄さというか……なんていう事例もあった。
 そういうあやふやな権利意識から生み出された作品とも、十把一絡じっぱひとからげに、無料で、データセットの中に無造作に放り込まれる。
 馬鹿やってんじゃねぇ! ってなるのもわかる。

 勿論実際の画像生成AIは最も良く置かれる色配置が出るらしい(理解が間違ってたらごめんなさい。テレビで開発者の人だかが、そう言ってたので素直にそう解釈しております……)から、独自性ある作品より汎用物が出る(独創性とかのないポージンングやデザイン)可能性の方が高い
 そうなるとその出力物自体、著作権外となるだろうというのは、文化審議会著作権分科会法制度小委員会というところが取りまとめた議論の中でも書かれていた。

 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/pdf/94037901_01.pdf

 けれど、プロンプト次第で、人の知れるはずのない膨大なデータの中から全世界の見知らぬ誰かの独自のデザイン、構図、なんらかを出力することがあるかもしれない。(個人的には、ここの近似値というか依拠性? をシステム側で除外してもらいたい願望がある※機能のついてるモデルがある等、情報あれば知りたいです)

 絶対にそういう事例は起こり得ない、というならば、有識者にはなぜそうなのかというのを論拠と共に広めていただきたい。
 これは、画像生成AIを推進する方々にもお願いしたい。

 地球の裏側の人の作り出したもので、その人をぶん殴るような、そんな行いはいち創作者としてやりたくない

 また、知らないうちに出力して敬遠されるのも嫌だ。
 その創作物を知っている人からすれば、知らずに出力して発表したのだとしても、後発でありその著作物を我が物顔で占有し自作物であるかのように扱っていると見えるかもしれないのが怖い

 それは自身の信用度の毀損に他ならない。
 自分で自分を傷つけたくはない。
 そんな趣味はないのだ。

 そして悪用されやすい側面、その側面を完全でなくてもいいからやりにくくされるまでは使いたくない、声を上げて抑止したい。
 それくらい許してほしい。
 というのが私の正直な気持ちである。

一番の問題点は双方の過激派

 なんで全面的に賛成しないと攻撃されるのか?

 なぜ不勉強に対し理解を促そうとする言葉を掛けないのか。

 すぐ、だからバカだ、だからダメだ、こういう言葉をつけているポストが散見される。
 理解してもらうことを初っ端から投げ出している。

 これは画像生成AI推進派にも画像生成AI規制派にもいて、私からすれば両方ただの過激派に見える。
 ごく一部だが、場合によっては両陣営でひっそりとどっちかに世論を転ばせたい人たちに都合よく、ウィークポイントとしてあげつらわれて、まともな意見を言う人までもそうだという印象操作に使われているのではないか。
 これは双方に存在しているように思う。
 やめてほしい
 その「画像生成AIによる手描き絵師撲滅推進派」「画像生成AIの全てのシステム破壊推進派」も、議論の卓につかせてはならないと思う。
 一緒にしても欲しくない。

 どうか、何を問題にしているのか、どう解決されているのか、どうしたら解消されていくだろうか、どの方向へ踏み出せば共存できるか等、双方知恵があるなら情報を出し合って共有し理解を広げていってほしい。
 過激に言ってしまえば、「画像生成AIによる手描き絵師撲滅推進派」「画像生成AIの全てのシステム破壊推進派」もほっとけばいい。
 相互理解は自分の意見を言う、相手の意見に耳を傾ける、その中で改善できる部分、問題が残る部分、これら全てを双方が理解しなければ始まらず終わりもしない。
 一つでも欠けたら成り立たない。

 上記にリンクを出した委員会では、問題点も把握しているように感じられた。(推進はされると踏まえ、慎重派ゆえ問題点のみの把握で全文は読んでなく申し訳ない)
 そういった部分をきちんと共有し解消していけば、円満な画像生成AI使用の道も開けるように思う。
 理想論だろう、けれどそういった姿勢の人が、極端な人の中にも増えていくのを願わずにはいられない。

問題解消に動き出している人や企業

 喧嘩している人ばかりではない。
 画像生成AIを安心して運用できるよう動いている人達もいる。

 その一例としてこちら、絵藍ミツアを紹介したい。
 初期に問題があったらしき跡もあったけれど、書いてある説明の気概で開発し、賛同者が現れて現在も学習中なのはとても素敵なことだと思う。

 発展を願う画像生成AIユーザーの方は、是非こういった活動を続ける企業も応援していただけたらと願っている。

画像生成AIと二次創作の違い

 とかく同じ土壌に上げて話す人もいると聞いた。
 画像生成AIがダメなら二次創作もアウトだろ、と。

 これは明確に違うと言いたい。
 成り立ちが違うからだ。
 二次創作の発端は、想像でしかないけれど、原作などの版権への愛がひとえにダダ漏れすぎたが故に自然発生した現象だと個人的に考えている。
 独自に進化し、きちんと弁えているほとんどの二次創作者は原作をリスペクトし、それによっての生計を立てようなどという出発点により創作しているわけではなく、頒布はんぷという独自言語(辞書の意味と二次創作で使われるこの語は厳密にはニュアンスが違う、主にファン活動であり利益というより実費回収――ところにより回収すら度外視)を使うほどに、その行いは創作原点とも言える私がストIIを元にしたオリジナル漫画を描いたものに近い、と考えている。(※少しの利益がある場合も。時に生計を立てようと参画しイナゴと呼ばれる愛無きジャンル跨ぎをしたり、かなり古にその末将来が不安だからと大金を脱税した人もいるらしい……が、大概の界隈ものには眉を顰められたとかなんとか)

 ここだけ熱量が違ってすみません(スライディング土下座ドドゲザン)

 画像生成AIは、別段クリエイティブファンの人が作ったシステムではないのではないか、と感じている。
 なぜなら開発ならいざ知らず、一般公開や有料化において必ず出てくるだろうわかりやすい問題点さえ素通りで出てきたようなところがあると思うからだ。

 その点、画像生成AIと二次創作とではやる(出力、二次的な創作)行為への配慮視点にも差が出ている、ように考えている。
 理由としては学習元データの件だ。
 詳しく調べてはないが、ネットから無差別に物凄い枚数をピックアップしているという。
 児童ポルノが混じっていた、と海外でニュースになったとのニュース記事を紹介するnoteもあった。
 ユーザーが安心して使うことのできない品物は、果たして顧客目線と言えるだろうか、日常使いをしていいだろうか、疑問がある。

 ただ、私は開発者はともかくとして、現行のただネットへ出力物掲載のみしている人は、新し物好きなだけなのでは? とも考えている。
 イラスト出力が楽しい。
 それはゲーム本体とソフトを買ってプレイする初日の、あの感覚に近いのかもしれない、と。

二次創作と画像生成AI出力を適切に行うには

 現状、二次創作に限らず権利物のSNSアイコン等への使用もネットには溢れ返っている。
 が、これは上記の自分の部屋と通ずるところがあって。ネットの側面である個人の部屋感に起因するのと、その使用が私的利用に近い(言うなれば版権物ポスターを壁に飾る行為や、友人間で楽しく鑑賞する為に共有するような行為に近い)と、なんとなし感じていたりするのと数が膨大すぎて権利者が取り締まりしきれず黙認されているのかな? というのが私の所感だ。(ファンの楽しむ姿によって宣伝になる場合もあって、一律に禁止! とするには難しい側面もありそうでもある。近年はそこを逆手に取り、ファン同士が盛り上がるための公式のSNS活用も、活発だったりする。)

 だからいいとかではなく、これは権利者の声が届いたら、きちんと取り下げるという認識や知識が広まるほかないと考えている。

 これは画像生成AIにも言えるのではないか。
 そもそも、享受目的でない画像生成AIの使用を、多分誰も止めようとも思っていないと思う。(過激派は違うかもしれない)
 それは、自分も商業の作品やキャラクターからその設定やキャラクター、エピソードをお借りして創作を始めた、触発されてオリジナルを描き始めた、という意識のある人がほとんどであるからだ。
 そこから段々と、オリジナリティー100%に近づけていき、おおよその創作者は自身の芸術品とも、日用品とも、必需品とも嗜好品とも呼べる創作物を作り出す。
 個人でただ楽しむ分に、権利品はネット上にもさまざま溢れている、それに逐一突っかかりに行っている人を見たことがない。(画像生成AIが台頭し、規制派への論破の糸口として言及している人はちらほら見るようにはなった)
 これはどこかで誰もがわかっているのだろう、権利品について何か利を享受しようとして使用しているのではないな、と。
 少なくとも、私はそう考えている。

 手描きと画像生成AIとはある種、伝統工芸品と工業製品の関係に似ている(同じという意味ではない)と個人的には考えているが、話が逸れるので戻す。

 画像生成AI享受者や二次創作者については、権利者をリスペクトし、たとえば権利者からの申し出があり依拠性を有した自分の出力したものや作ったものを下げる、等の行動ができる部類は私個人は問題にしていない。(過激派はその限りではないかも)
 よしんば画像生成AIで二次創作をしたとて、頒布の範囲内、権利者作品を例えば内容や物量(画像生成AIによる次話展開予測やAIだからこそ可能な本家を上回る量産、等によって本来の収益機会を奪われる作品が出てくる可能性はある)で毀損しない立ち位置であれば、人の手も機械の手も実は問題は出てきにくい、と思う

 実際、権利関係をきちんと確認し、二次創作のガイドラインのある作品のファンアートを画像生成AIで出力して楽しんでいる人もいた。(ちらりと見ただけなので、再度、版権キャラと出力キャラがどう似通って差異がどう……というのを確認してみたが、全く同じものを出そうというのではなく、キャラの特徴を出してもらって――当然衣装のデザインは違うがミニスカならミニスカ、色味なら近似値の色味等――出力できた♪といった感じ)
 個人的に、律して使う分には手描きと画像生成AIとでは、行為において差異はないように感じた。

 また、きちんと創作への敬意のある人は、画像生成AIからの出力物にはハッシュタグAIやAIartなどと、記載してネットに載せているようだ。
 区分け、住み分けの意識がきちんとある証拠だろうと思う。

 しかし一方で、何故か生成AI製のイラストであると隠して、更には手描きかのように振る舞う人がいたりする。
 これは、手描きと偽ることで自身がその生成イラストから、何か享受しようとしていないだろうか。
 このクオリティを手描きで? と思われたがっていやしないか。
 享受目的に使用してはいけない以上、やってしまえばそれは適切な使用から外れるのは明白だろう。

絵柄が盗用されてる! について

 絵柄(画風ともいうだろうか)に著作権はない。
 それだと種村有菜先生(りぼんの漫画家)の元でアシスタントをしていた方は、漫画家としてデビューできていないだろう。(元アシだからか絵柄が非常に似通っている)
 過去、漫画界でも劇画などが流行ったらしいが、かの手塚治虫先生もその時期に劇画調にしている。

 NHK『漫勉』にて『ブラック・ジャック』連載中に、絵柄の流行が変わり、取り入れた跡が原稿に残っているのも放送されていた。

私は何を問題に思っているか

 これについては色々自問自答した。

 画像生成AI技師の方が、特定絵師狙い撃ちの無許可追加学習は政府がやっちゃダメよと書いているというポストをしているのを見た。
 なら、無断で追加学習を行ってる画像生成AIは駄目という部分は、きちんと議論の結果が出ていて周知待ちだろう。

例えば以下のような場合は、AI 学習データとして収集する等の場合であっても、「享受」目的が併存している場合に 当たるとして、同条が適用されない場合があります。このような場合は、権利者の許諾 を得て利用することが必要です。
1 AI学習データに含まれる著作物の創作的表現(その全部or一部)を出力させることを 目的とした追加的な学習*を行う場合
*意図的な過学習等
2 検索拡張生成(RAG)等*1を実装する際に、生成AIへの入力用に、既存の著作物を 含むデータベースを作成する場合*2
*1 RAG等のうち、データベースに含まれる既存の著作物の創作的表現(その全部or一部)を 出力させることを目的としたものに限られます。 *2 出力が、既存の著作物の「軽微利用」の範囲にとどまる場合は、著作権法第47条の5 (「考え方」10・22頁参照)の適用も考えられます。
3 特定のクリエイターの作品である少量の著作物のみを学習データとした追加学習*を行う場合
*LoRA(Low-Rank Adaptation)等の手法によるものであって、学習データの創作的表現 (その全部or一部)を出力させることを目的としたもの

AIと著作権に関する チェックリスト&ガイダンス - 文化庁 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/seisaku/r06_02/pdf/94089701_05.pdf(参照 2024.10.22)

 手描きと偽ることについてだろうか。
 これは正直しょうもないことするなぁと思わないでもない。
 けれど日常イラストを見慣れている側からすればAIかどうかは、現段階だと割合見分けがつく。
 いずれ見分けがつきにくくなってくるとは思うが、イラストの持つ意図だったりニュアンスが好きなので、実はそんなに画像生成AIイラストへ危機感はなかったりもする。
 ただ、堂々とAI画像だと名乗らないということに腹は立てているかもしれない。
 後ろめたいというなら使うべきでないと考えるからだ。
 絵描きが一本の線を誇るように、創作と出力の差はあれどプロンプトに誇りを持てばいい。
 ネットの世界には、どの界隈にも必ず過激派は存在している。
 そこを恐れていては、何もできなくなってしまう。
 昔はゲームといえば眉を顰められるものだったが、今はゲームをすると言っても、フーンで終わる。
 ツールや娯楽は、いつでもそんなものだ。
 きちんと理解して使用する分、責任を持つ分には、何も問題はないだろう。

 なら、何が嫌なのか。
 私はせっかくの技術が中途半端に、今やネットでケンカの道具になっているような空気感が、もしかしたら嫌なのかもしれない。

 問題をはらんだまま破棄するか礼賛するかしかない、という、場を支配するそんな二極化したような空気を、問題に思っているのかもしれない。
 とふと思った。

画像生成AI有料化の理屈への疑問

 最初の方で有料化されている画像生成AIがある、というのを最近知ったと書いた。
 実のところ、画像生成AIは無料だと私は思い込んでいた。
 だから研究段階でのみ合法なデータを含んだものが巷にも出てきているのだろう、と。

 もちろんなんとなしに予測を立てるというか勝手なイメージはあって、元データからタグ化した要素や座標と色データ数値を覚えさせたもの(要は画像そのものがそこに存在しているわけではないという理屈)を、使用者の要求する単語から平均値ピックアップをかけドット描写していくような、そんな感じかなと。
 そうである以上、それはただの記号で、記号を出力しているだけなら元画像への毀損はない判定で。
 対価はそのシステム開発への料金とかなんとかなんだろう。

 ただちょっと待ってほしい。
 それは本当に、ただのデータだろうか?
 文章だの音声だの動画だののAIも昨今登場しているが、その出力元は、結局のところ誰かの描いた線、書いた言葉、発した声、撮った動画があった上でのコピーデータではないのか?
 それ無しに、コンピューターは誰かが資質や個性・特性から伸ばし表現したような線を、言葉を、声を、動画を、コンピューター個々独自の資質でもって吐き出してくれるのだろうか。

 逆を考えてみる。
 AIが模倣をするというなら人間だって、という人がいる。
 果たしてそれは、他者と全く同一の線を引けているのだろうか。
 私が描く線。
 それは私が憧れた、先人たちと同一の線であり、ドットだろうか。
 これは、明確に違うと言える。
 憧れた線には到底及ばない。
 描きたいニュアンスには心底追いついてない。
 悔しい中でも描き、ただ、そこにある自分と、この手が形作る線や色や息遣いを受け入れて世に発表しているに過ぎない

 機械と人間の同一性や差異については、色々な人の言葉を見るにつけても、非常に難しいと感じている。
 浅学ゆえ、その答えを私は持ち合わせていない。
 知っている方がいらしたら、ご教授いただけたらありがたい。

 なお、声という自分の持つ肉体と切っても切り離せない部分を使う仕事――声優業の方々が、声明発表し始めたらしい。
 画像も意見種々あれど、声というか肉体から無断で用い有料化するとなれば、育てもせず隣の畜産農家から牛を連れてきて切り刻んで食肉にするのと近しくなってしまわないだろうか。
 現行法がない=合法と捉えている人もいるようだが、これまでにはなかった技術それのための法が整備されようはずもないのだから、性急に合法と結論を出さないほうがよいと思う。
 議論はまだまだこれからだ。

 動画が公開されたようなので、以下リンクを貼っておく。

 NHKのニュース記事はこちら。

 当事者の声、一部抜粋。

また、「作品はみんな一生懸命、本当に長い時間をかけて作っていて、それを無断で使ってお金にかえることは心無い行為で、いけないことだと思う。自分が言っていないセリフを私の声でどこかで流されたら、『かないみか、そんなこと言っているの』と言われたり、下手したら犯罪にもつながってしまうかもしれない」と懸念を示しました。

AIで音声など無断生成 声優らがルール作りを訴え啓発動画 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241021/k10014615291000.html(参照 2024.10.22)

単一化することへの薄ら寒さ

 絵柄を、構図を、ポージングを、デザインを平均化する。
 ということはとどのつまりは、平凡になる、均一になるということと同義ではないかと、昨今のXで流れてくるweb小説の表紙やAIイラストを眺めるに感じていて。
 どういうことかというと、どのイラストにしても均一に同じ絵柄や線、ニュアンスで出力されているように見えるのだ。
 人気の絵柄の平均を求めるということは、個性やある種の癖、線の揺らぎといったものを削ぎ落とすに等しいのだろう。
 誰でも同じに。
 工業製品のようにズレを減らす、無くすという工程。
 無くすというより、絵などの場合は失くすに近いかもしれないな、と個人的には考えた。

 これを突き詰めるとどうなるか。

 クリエイティブな核部分の工業製品化――と言っていいのかどうか。
 けれど、近しくなる、と考えている。
 人の心に訴求せんとするクリエイティブが工業製品化するとき、果たしてそれは、本来の役目を全うできるだろうか。

 私にはその未来が、どうにもうまく思い描けなかった。

同一がこの世に存在していないという武器

 こうして文章化してみると、我々人間は、思いのほか他者の個性と共存したり無意識に受け取ったりして生活している、ということに気づいた。
 感情や心というものを割合無条件に、肌感として存在していると思っているし、それらは日常に溶け込んでいる。
 画像生成AIは、それと真逆だとも言え、それがさも人間でございとAIというラベルを貼らずに入り込んできたら違和感があるのも、また人間である証左なのかもしれない。

 そこへの違和は、人間が人間である以上仕方ないのだろう。
 双方が、上手く折り合える地点が見つかるというより見つける努力をしなくてはならない。
 と、考える。

日本や海外のAIに関する対応

 政府は活用と安心安全への筋道を、準備しているようだ。

 海外ではすでに、法整備の第一段階がすんだ国もあると聞く。
 権利をきちんと明記する出版社もではじめたようだ。

 世界中で、議論は深まってきているのだろう。
 上手な線引きや住み分けが進むことを切に願っている。

私があって欲しかったと思う生成AI

 昨今、たとえばアニメにおいて3DCGへの2Dテクスチャ?のなじみようは目を見張るものがある。
 デジタル上で手書きがなされたセル画と、見分けがつかない時もあるくらいだ。
 Vtuberという存在の台頭も衝撃的だった。
 個人でモデリングした動きと、これまた個人が作成した衣装デザインを用いて、キャラクターとして動く配信がされている。(理解の解像度が低かったら申し訳ない)
 すごい時代になったものである。

 たとえばこういった技術に、きちんとした対価が支払われ、一般人にも使えるようになったら。

 初音ミクのように。
 と、言えばいいだろうか。
 これまでに蓄積された膨大な3DCGデータにAIをかまし、これまた膨大に倉庫に眠っているだろうセル画のデータを取り込む。
 するとジブリ風アニメ生成AIの素地ができるという寸法だ。
 3DCGスタジオとアニメスタジオ、その橋渡しというかデータ渡し?やシステム構築者としてのAI企業。
 そうしたコラボをしての製品開発を、することはできないだろうか。

 たとえばジブリ。
 ジブリは近年、自社画像を一般に公開してくれている。

 製品としても潜在的に使いたい人がいるんじゃないか、というのは私の皮算用だけれど。
 もしも出たら、使ってみたいなという気持ちは強い。

 もちろん出力される動画には、必ず常にクレジットが入る仕様などにし、既存のアニメと競合させないといった対策は必要だろう。

 本来AIは、こうしたマンパワーでは解決できないだろう部分の補助だったりを期待されていた部分も大きいのでは、と推察している。
 現にAIによって、スマホアプリ等の翻訳による恩恵は海外旅行先での現地交流に一役買っているそうだし。
 品物をスマホのカメラによって判別し読み上げてくれるアプリは、盲目の方の第二の目として助けになっているようだ。
 どちらもこれまで、旅行者全員に翻訳者をつけるわけにはいかなかったし、盲目の方にだって二十四時間三百六十五日介助者をつけるわけにはいかなかった。
 いわば隙間の、だけれど生活を豊かさの方向へより拡張できる部分。
 その為にたとえば、ネットにあげられている私の文章が使われていたとしても、「もしかして間違った日本語使って邪魔してたらすまんやで……」と思いこそすれ、「使ったなこの野郎!」とは思わない。
 その開発をした企業にも、なんら悪感情はわかない。(わく人もいるしそれは自由であるべきなので、あくまで私の場合だ)

 道具は使いようとはよく言ったもので。
 画像生成AIにおいても、より良い使いようの道が開けたらいいなと思う。
 その為には意見を二極化させず、種々の問題に対応する議論こそ、望まれている。
 少なくとも、私はそう考えている。

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