3桁の薬を飲んだ、それから学んだこと。
2023年8月10日、お盆前の夜。
私は3桁に及ぶ薬を飲んだ。
そうさせたのは私がおかしかったのか、周囲がそうだったのか、はたまた環境がそうさせたのか、今ではわからない。
きっかけは
「九州に住む母方の祖父母に会いたい」
ただそれだけだった。
九州に住む祖父母にはもう10年以上会っていなかった。
でも今年の夏はとても、とても会いたかった。
お盆休みなら会えると思ってチケットを取った。
今会わないと次会う時は祖父母のどちらかのお葬式じゃないかと思ったから。
でもその件を巡って母と口論になった。
口論をしながら頭の中で
「ああ、もうこういうのやめたいな」
と思った。
途中で口論すること自体を諦めた私は2階にある自室に篭ってチケットをキャンセルしてSNSを開いた。
そこで自分の意見と母の意見、どちらが正しいのか聞いてみた。
その時
「それは母親がおかしい」
そんな声や文章を見た気がする。もう記憶が定かではない。
でも私はその時、母親が、ではなく家族がと思ってしまったんだろう。
その時思ったことは
「私の家族は普通じゃない」
だったと思う。
いつだって、私の家が世間一般で言う普通な家族として成り立ってるとは思ってなかったけれど、それでもきっと私は
「私の家族は普通なんだ」
と思っていたかったんだと思う。
多分、それが引き金だった。
その時怖くなって、逃げたくなった。
死にたい気持ちはあまりなかった。
本に栞を挟んで閉じて「また今度」とするように私の意識も暫く閉じてしまいたかった。
投げやりな気持ちもあったと思う。
ああ、もうどうにでもなってしまえ!
そんな気持ちが頭の中を駆け巡って一包化された薬の袋を1つ1つ開けた。
開けながら、
「薬をOD(過量服薬)したくなったら電話すること」
と言って約束していた人のことを思い出していた。
3桁の薬を開けて薬を飲むまでの数分間、その人に電話をするか凄く悩んでいた。
でもその時、その人に電話をして過量服薬をやめたとして、その後薬を開けてしまったことを母に問い詰められて呆れられるのではないかと私は思った。それがその時はとても、とても恐ろしかった。
呆れられるぐらいなら飲んでしまおう、そう思ったんだと思う。
水で薬を飲むには苦しいと思い、プロテインのドロドロの液体を作って薬を一気に飲んだ。
錠剤が大きかったのでゆっくり、ゆっくり飲んだ。1リットル足らずのプロテインで薬は飲み切ったと思う。
「あ、飲み切った、」
と思った時、急に自分がしていることが怖くなって手が震えた。
涙が出てきて、独りでいるのがとても恐ろしくなって、
何より、
「薬をOD(過量服薬)したくなったら電話すること」
と約束したのに破ってしまったことが頭をひたすら巡った。
震えながらその人に電話をかけて、話した。
わんわん泣いてたと思う。
電話の向こうでしっかりしろ、と言ってる声が聞こえた。
その人に
「父親か母親に電話を」
と言われて父親に電話したが仕事が忙しかったようで繋がらなかった。
母親はビールを3缶開けて寝ていた。
約束の人に電話をかけ直してダメだったことを伝えたのち、その人が東京から私の住む県の119に連絡して救急車を呼んでくれた。
「胃の洗浄したら大丈夫だから。大丈夫。しっかり」
と言ってくれて、電話を切り、1階に降りると遠くから救急車のサイレンが聞こえるのが聞こえて、
「救急車って意外と来るの早いんだな…」
とぼんやり思った。そこから市民病院に行くまでの記憶はぷつりとなくなった。
目が覚めると色んな管が身体中にあった。
看護師さんらしき人が
「おしっこの管入れるから足広げて〜」
と言っていてそれが凄く痛かったことだけは記憶にある。
するとまた場面が変わって私は赤い空間にいた。
赤い空間にはベッドに横たわる私と左右に幻覚で文字化けした壊れたモニターがあって、数値を表示していた。
自分が付けていたメガネやApple Watchが壊れる幻覚を見ていながら身体を起こそうとしていた。
するとどこからか看護師さんが飛んできて
「起きないで!」
と言った。
でもそのことが理解出来なかった自分は必死で起きようとした。そういうやりとりを何度も何度もした。
気づけば周囲に看護師さん達が沢山いて、見覚えのある看護師さんが数名いて自分が精神科の病院にいることがわかった。
(後々知った話だと私はその頃誤嚥性肺炎を起こしていたらしい。)
赤い空間に暫くいた後、場面が変わって白い空間にいた。
そこが精神科の保護室だったことがその時はすぐ理解出来た。
動こうと思ったが拘束されていることも理解した。
看護師さんの
「ここどこかわかる?私誰かわかる?」
という問いにも回らない呂律で答えることが出来ていた。
パルスオキシメーターの数値が89%だったことや体温が38.8℃だったのも理解出来た。
その日は8月13日だった。
そこからは徐々に回復したと思う。
14日のお盆休み真っ只中で主治医と思しき人が休み返上でやってきて拘束を外してくれた。
そこからの回復は凄まじかったと思う。
それと伴って自分のしたこと、家族のことを考えることが増えた。
私のした過量服薬の薬の内容には心停止するような薬も入っていたそうで一見ただの過量服薬に見えて非常に危険だったらしい。
「神経を圧迫して一生車椅子生活になる可能性だってあったんだよ」
と言われた時は流石にひやっとした。
家族のことについては追々noteに書いていこうと思う。
けれど、私の家が普通でなくたって、私は私であることに変わりはないことは理解したつもりでいる。
今も入院していているけれど今は落ち着いていて、退院は9月12日に決定。
今は退院後のことを考えつつ、毎日過ごしている。
ここからは後日談のように読んで欲しいが、市民病院からの請求額が7万円だったのはかなり痛かった。
正直精神科の入院費も恐ろしそうで今ビビり散らかしている。
そして入院中に国家試験(製菓衛生師)の結果が届き、結果は合格だった。
でも
「プラスの出来事もマイナスな出来事もストレスになる」
と主治医は仰っていて、実際、その通りにその時少し体調を崩してしまった。
病棟でも色々な出会いもあって、涙が出る別れもあった。
様々なことが起きる人生で、逃げて立ち止まることは時にあると思う。今回の入院のように。
でも自分がどうしたいかを逃げずに向き合う必要性はある。
自分が動かないと自分の人生は変わらない。
それを学んだ自分は少なくとも8月10日より強くなりたいと思っていると思いたい。
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