蕾 ―花あかりの夢より―
中庭の真ん中に桜の木が立っている。
この桜を囲むように置かれたベンチは校内でも人気のスポットだが、明日に控えた卒業式の準備のため生徒のほとんどが下校させられたらしく、放課後になってしばらく経った今、普段は賑やかなこの場所も今日は静まり返っていた。
そんな中、美香が学校に残っていたのはリクエストしていた本が図書室に入荷されたと司書の先生が知らせてくれたからだ。
自宅まで我慢ができず、美香はベンチに腰掛けて借りたばかりの本を開く。
キリのいいところまで読み終えて立ち上がったところで、ベンチに1冊の本が置き去りにされていることに気が付いた。
美香と同じようにここで読書をした誰かが忘れて帰ってしまったのだろう。
その本の表紙には「花あかりの夢」とだけ印刷されており、作者名も出版社名も書かれていない。
ページをめくってみると、どうやらどうやら桜と恋の物語の短編集のようだった。
読み始めると夢中になってしまっていたようで、薄暗くなった桜の周りもライトが点灯している。
そろそろ帰らなければと慌てて立ち上がるとどこからか桜の花片が舞い落ちたが、まだ桜が咲くには早いはずだ。
首を傾げつつ花片を拾い上げ、図書室で借りた本に栞代わりに挟み込んで美香は下駄箱に向かって歩き出した。
今日はこの本をベッドに持ち込んで眠るまでに読みきってしまおう。
最後に中庭を振り返って、ライトアップされたこの桜の満開を今年は見られないことが少し残念に思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
美香には好きな人がいる。
隣の席の彼のことを好きになったきっかけは自分でも分からない。
でも、中学生活も残り3か月になって気が付いたこの恋を叶えるつもりもなく、これから進学先も別れてしまう彼とはこのまま良き友人でいられたらそれでいいと思っている。
ただ、連絡先を聞いてからできるようになった好きな人との気安いやり取りはやはり嬉しいものだった。
いつものようにテンポよく他愛もないやり取りを交わしながら、伝えるか散々迷って、でも自分の気持ちを混ぜ込むことを決めたのは、明日が最後だからなのか、それともあの桜と恋の物語を読んだからだろうか。
―そういえば、中学生活3年間もあったのに青春みたいなことしなかったからさ、思い出に制服のボタンちょうだい
すぐに既読になったのを見て、スマホを握りしめる。
断られたらすぐに冗談だと笑い飛ばせるように文字を準備する指は少し震えていて、自分が緊張していることを知った。
―いいよ。俺のでいいの?
了承の返事を得てもまだ震えている指先を叱咤しながら、先ほど打った文字を消して新しく入力する。
―もちろん。嬉しいよ。変なこと頼んでごめんね
―ぜんぜん大丈夫。どこのがいい?2番目は他の子にお願いされてるからダメなんだけど
そう聞いても不思議とがっかりはしなかった。
彼のボタンを欲しがる女の子にはいくらか心当たりもあったし、むしろ断られると思ってしたお願いが聞き入れられたことへの喜びが勝っていた。
―じゃあ3番目はどう?
―OK。じゃあ明日ね。
最後にお礼を言って就寝の挨拶をして、最後に送ったスタンプに既読が付いたことを確認してからスマホを伏せた。
夜更かしをしたせいで開ききっていない気がする瞼を擦りながら制服に着替える。
借りた本は早々に読み切ったのだが、昨日の彼とのやり取りを思い出してなかなか寝付けなかったのだ。
家から学校までの道のりを歩き、なんとも言えない、けれども不快ではない気持ちに胸をいっぱいにしながら辿り着いた校舎は、下駄箱からいつもより雰囲気が華やぎ、同級生の声も顔も明るく見える。
教室へ向かう廊下で顔を合わせた友人たちと挨拶を交わし、普段どおりを装いながら交わしたいつもどおりの挨拶や会話もやはりどこか浮き足立っているように感じられた。
教室に入るといつもと同じように賑わう席があって、人だかりの中心には美香の席の隣人がいる。
明るく気さくな彼の周りには休憩時間のたびに友人たちが集まっているのが日常だった。
この光景も今日で見納めかと思いつつ、自分の席に近づくとこちらに気が付いた彼の友人たちが口々におはようと言って美香の席を空けてくれた。
自席に鞄を置き、友達のところへ行くから座ったままで構わないとクラスメイトに椅子を勧めていると、目が合った隣人が笑いかけてくれた。
「おはよ、中川さん」
「おはよ」
微笑んで挨拶を返し、いつもと同じ彼の様子にほっとしたような、拍子抜けしたような気持ちになる。
周囲に人がいる状況に配慮してくれたのか、それとも美香としては勇気を振り絞った昨日のやり取りも彼にとっては何ということもないことだったのか、本当に美香の気持ちには気づかずにいてくれているのか。
悶々としながらも友人と過ごせる最後の時間を楽しみ、卒業式を無事に終えてからも散々名残惜しんで話し続け、それでも結局話し足りずに春休み中に集まる約束を取り付ける。
やっと解散した頃にはとうにお昼を過ぎていて、校内は午前中の喧騒が嘘のように閑散としていた。
図書室に借りていた本を返してから、中庭に出る。
ベンチに置かれていた本はなくなっていた。
彼と待ち合わせの場所や時間の約束をしていなかったことに気が付いたのは、最後のホームルームが終わってからだった。
焦ったけれど、彼の周りは人で溢れていて声を掛けられるような状況ではなく、人が少なくなるのを待っている間に彼と彼の友人たちは教室からいなくなってしまった。
残念ではあったけれど、貰えないならそれでもいい気もした。
そういう運命だったのだとすっぱり諦めもつくから。
「あ、いた。」
中庭に面する廊下から、もうとっくに帰ってしまったと思っていた彼がこちらに手を振っている。
「教室からいなくなってたからちょっと探した。よかった、見つかって」
笑いながら言う彼はその場に立ち止まったまま、制服から3番目のボタンを引きちぎるとこちらに放った。
慌てて両手を差し出し、なんとか落とさずに受け取る。
「ありがとう」
「うん。じゃあね」
あっさりとこちらに背を向けて行ってしまう彼と自分との縮まらない距離にほろ苦さが胸に広がる。
彼の背中を見送ってから自分に言い聞かせるように呟く。
「よかったね、わたし」
彼は昨晩のことをちゃんと覚えていて、しかも、わざわざ校内を探してまでお願いを叶えてくれた。
ほかには何も望むことはない。
なかった、はずなのに。
なぜ胸が痛むんだろう。
伝えないでいることを決めたのは自分なのだから、最後まで友人でいられたことを喜ばなくては。
気まずくならない代わりに、いつかどこかですれ違うときにはきっと久しぶりだねと笑って言えるだろうから。
貰ったばかりのボタンをゆっくり握りしめながら見上げた桜の蕾は、まだ固く、春が来るにはもう少し時間がかかりそうだった。
こちらは、ミムコさまの妄想レビューをお借りして書いたものです。
ふたつめのお話です。
本当はあともう一つか二つ書きたいお話があったのですが、全部書き終わるのを待っていたら来年の桜が咲きそうなのでとりあえずここまで。
例によって、レビューとはズレたお話であることからはそっと目を逸らしておいてください。
なにとぞよろしくお願いします。