『脱現代篇エクリチュールアート 部屋に鍵をかけなければならない』電子書籍-読書感想文① 脳死と死-
「ツァラトゥストラ」に、王としての実生活が嫌になり、民衆や家臣から逃げてきた二人の王様が登場する。もう一つ、〜陵と呼ばれる墓にはその土地の時代の王が眠っている。
を、想起したが、換気口がある所と逃げる行為をしなければならないそれで、映画「ショーシャンク」まで想起させる。
埋められている(や、自らそれを望んだ)王は、逃げなければならないのだ。この一文はあらゆるモノを想起させ愉快で爽快だった。
言語に閉じ込めて自身の世界に没入させていく手法が、従来の筆者というものだが、本書の筆者は、何処までも逃そうとするのだ。
題名にある「脱」である。
「脱現代篇エクリチュールアート
部屋に鍵をかけなければならない」
という題名も、筆者の名前も定かではない、このままならなさだが、実は私は敢えてということを知っている。(本当は知らない)
最初から「わかる」をさせないのだ。
さすが。。
そして最初のページにある文章のセンス。
この「鍵」を単に自室の部屋のドア、また玄関の鍵、若しくはトイレの「鍵」と思う、このベージを開いた読者はいないだろう。
さて何処の鍵なのか。
何処に鍵をかければよいのかが命題となる。
一度さらっと、アートとしての本書を拝読させていただいたが、何故かもう一度、非アート部分を見出したいためか熟読たくなったのだった。
以下、順不同で、ピックアップしたい内容だけを取り上げていく、まったくの型破りな読書感想になる。本書であっても、何処から読んでも面白く、そこを切り取ったアートになるのだ。
何故か、私の口調が直前に読んだ文体と似てくるのは、私が透明人間のようにどんなモノにも変化してしまうからだ。
これは筆者の特有性であり、特異性。
私は悲しいことに「せず」も、またそのどちらも出来ず、この性は持ち合わせていない。
この感覚は正直最近になって気づいたことだった。供犧、まぁ大抵において人間関係とは供犧対象者を決めるハンカチ落としゲームのようなものだろう。
私は全てのそれらから逃れてきた故に、強者にも弱者にもならなかった、ツワモノだとおもう。
しかしその対象者の道を常に選んできた者は、神だとおもうようになった。これは性(サガ)と、生まれるときに持ったものではないかと悟ったのだった。
脳死は、死ではないが、死の場合も同じケースがあるように思う。死すれば、脳は動かず、動くのであれば潜在意識だが、心臓と肺の停止による循環遮断の直前か直後に、魂にまとめられ、光を放ち亜空間に消えてゆく。
直前か直後かの見極めは、安らかな顔をしているかどうか。苦しみながら停止した顔も見られる時もあるが、どちらにしても、表情がある場合は、停止の後に魂が抜けたのだと感じる。
数日〜数時間前から見られる、苦しいはずの下顎呼吸が苦しくなさそうな場合は、もう魂はそこになく、ロボットのように動いているだけのように思う。停止の2時間以上前に、俗にいう火の玉が空間に吸い込まれていったのを見たことがあるが、流れ星のようだった。
葬儀の時のお顔がとても安らかで綺麗な場合は、まだ体に魂があるのかもしれない。さようならと挨拶されているかのような感覚。このニュアンスならわかるのではと思う。
チベットだったか忘れたが、そこの僧侶は自身の死を察した時から瞑想に入り、死後も何日か脳波に信号が見られたという記事を読んだことがある。それは何を目的とした取り組みなのか理解できずにいるが、筆者はそのことを言いたかったのかもしれない。
、、と、また、一行だけで、ここまで読者に想起させる、筆者のセンスと、型から脱している、新たな感覚の読み物である。
本書出版の半年前の前作も他とは違うと感じた。今作は、サルトルの、シニカルでシュールな劇小説に近く爽快なものを感じるが、前作の「幾何字源語標本 定直彦(sada naohiko)」は、独自の文体が美しく、読み終わったあとに、澄んだ煌めきのような揺らぎを感覚した。そう、ニーチェの詩のような。
前作と今作では異なる性質の芸術性が見られるのだった。
脱したあと、なかなか本書に戻れない特有性。
そこを狙っているような、いないような。。
続く。。