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『極限の思想 サルトル』-過去は所有する者の奢侈なのである-
本日のサルトルは、最後に感想を入れようと思う。
凡人と同じ類いことを考えていても哲学者たちは、何かを何かで括りたくないように思える。強い言葉で括った瞬間に異論を唱えられる可能性があるからか、わからないが、執拗なまでに一般的で俗的な言葉を使わないのだ。それがステータスなのだろうか。
以下、本文抜粋。
・様相概念、現実性と可能性
人間とは対自であり、対自とは欠如。
対自は欠如であることで存在を超出する。
対自はそれ自身が一箇の可能性であることによって世界の風景に可能な様態を、すなわち可能性そのものを付け加える。
──一方で可能性という概念を捉えかえしておく必要がある。他方で可能性概念を時間のうちで着床させておかなければならない。
・様態概念
「可能性」「現実性」「必然性」
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可能なもののうちの、或るものが現実的であり現実的なもののなかで限定されたもののみが必然であると考えることができる。 -カント-
「現実的なものはすべて可能である」
不可能とはそのうちに矛盾を含むものであり、矛盾を含むものは現実になることが出来ない。
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「幾つかの可能的なものは現実的である」
現実的なものは可能的なものになにかを付加したもの。
「可能的なものに付け加えるということが私にはわからない。付け加えるべきものなどありえないからである。 -カント-
・様相概念から時間概念
現実性を可能性の一部と考えるとは、現実的なものが可能的なものから生成すると考えること。可能性を現実性の論源的な過去と考えることである。
その結果、可能なものは広大な領野を形成することになり同時に可能性概念は空虚となる。可能性を空虚なものとしない、その概念を現実的なもののうちで位置づけてゆく必要がある。
それは可能なものを時間化し、可能性を未来として現実性との関わりで捉えかえすこと。
サルトルの時間概念
過去・現在・未来のそれぞれについていうならば、それらのおのおのが「ひとつの根源的な総合の有する構造化された契機」
独立した時間の三次元と捉えているものはおのおのが相互に絡みあい有機化された一箇の構造として捉えかえさなければならない。
即自という無時間性、即自としての過去
・過去は存在するのをやめたのではない。ただ有用であることを止めるだけである。 -『物質と記憶』ベリクソン-
・「過去とは所有する者の奢侈なのである」
・即自とは無時間性。即自にとって「過去は夢のように滑り去ったのだ」
・対自にとっては「あった」という語りが示すものは過去と現在の結びあいであって、後者の前者への超出であって「時間性のこのふたつの様相の根源的な総合」にほかならない。
・事物に時間は流れない即自には時間性がない。過去のうえにはもはや時間は流れない。
・死者はただ「だれか生き延びた者の具体的な岸辺に救われる」のを待つだけである。
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ここでは、欠如することで世界に広がる可能性とその現実性について述べられていた。
欠如による広がりは、対自すればするほど、同じ数だけ広がっていく気がする。自分がなくなっていくと同時に他が自動的に増えて行くという実感がある。
ここでいう可能性とは夢や目標のことではないかと考える。現実から現実的な可能性を付加しなければ可能とはならない。
それには現実的なものが可能的なものから生成されなければならなく、論源的な過去、すなわち、理論のある未来、未来を達成された過去とすればいいのだ。
可能性という空虚ではなく現実的に時間を位置付けていく。未来を過去と捉えて対自するということだろう。
「即自は無時間性、対自は現在から過去への超出」
「過去は所有する者の奢侈なのである」
思い出などの過去を所有する者は贅沢な重い荷物を持っている。過去の栄光や、実績、努力など、被害妄想、黒歴史、トラウマだってそうだ。
持っているから前に進めず、その場で沈没して身動きがとれない、即自という無時間性に陥っている。対自して欠如させ、流れを作らなければならない。