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やっぱり岡潔が好き

 最近、岡潔の本を読み返したりネットで関連記事を読んだり、聞いたりしている。岡潔は私には全く縁遠い数学者だけれど、彼の語りや文章に滲み出る人間味に不意に心をさらわれてしまう。先日も、そんな岡潔の原点のようなエピソードを頷きながら聴いていた。

 岡潔が小学生の頃、祖母がところてんをつくってくれて「どう?美味しい?」と祖母に聞かれ「そんなに美味しくない」と素直に答えた時の祖父の言葉が心に残った。

「おばあちゃんは、お前に喜んでもらおうと手間をかけてところてんを作ったんだ。だから美味しい、美味しくないというのはお前のことで、まず、おばあちゃんの心を汲んで、ありがたいと思うのが先だ。」

 子供には厳しい言葉かもしれないけれど、私には祖父の道理がシックリくる。そして、岡潔の言う祖父の教えだった「他人が先、自分は後」という言葉そのものだと思った。今の時代は「先ずは自分を大切に、自分の気持ちを優先に」と聞くことが多いのでピンとこないかもしれない。それでも、私はこの言葉のなかにとても日本人的なものを感じる。

 そして、日本人について語っている岡潔と司馬遼太郎の対談「萌え騰がるもの」がとても面白い。46ページほどの薄い本でパラパラと読めてしまうのだけれど、古事記や幕末、天皇などを通して語る日本人について、頷いたり、ドキッとさせられたり、クスッと笑ってしまう。さらに、この薄さにギュッと時代とお二人の思いが明瞭に詰まっていることにもビックリする。

 先ず、今の日本人に対して「国家秩序、社会秩序に馴らされて、人は家畜になったのです。」との岡潔の言葉には返す言葉も無い…。そして、そんな日本人の歴史を遡るとなかなか面白い民族だということに気付かされる。

 古事記についてもこんなことを語っている。岡は芭蕉も万葉も良いけれど、次元の高さで超絶絶対に類型をゆるさないのが古事記だと言い、司馬は古事記の凄さは上代人の心の律動の大きさだと言う。

司馬:格調が非常に高こうございますからね。
岡:人々は、あの格調の高さがわかないのでしょうか。

萌え騰がるもの 岡潔・司馬遼太郎

 私は格調の高さがわからない一人だった(笑)学生の頃、古事記に描かれている日本の神々の荒々しさ、物騒さに恐怖して神社に近寄るのも敬遠していた時期があった。それくらい全く理解できなかったのだけれど、上代人の心の律動の大きさだと聞いてとても納得出来た。そして、そんなダイナミックな祖先を持っていることにも嬉しくなった。

 また、室町時代以前の人間はたいへん感情が激しく、ある意味清らかだと言う。例えば、嫉妬した相手を殺すまで嫉妬するという清らかさ。これがわからないと、あの時代はわからないと司馬は語り、やっぱり、念ですよ。念が澄み切っているから、そこまでいくのです。その念はまことに清らか。と岡が同意する。

 なんだか、とても格調高い会話に凡庸な私はポーッとしてしまう。日本人についても、読み終える頃には今では軟弱に思える日本人も、本来は『舐めたら危険』なくらい気概がある民族だと思えるようになった。

 そして、次々と様々な人物や事柄にからめて日本人について大いに語る岡潔に清々しさを感じ、まるで上代人のように思えてしまう。そんな澄み切った岡潔を「やっぱり好きだなー。」と改めて思う今日この頃。


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