知らないということは、自由ということかもしれない
コロナにより自宅で過ごす時間が増えた今日この頃。未だ出しっぱなしのこたつで、ずーっとパソコン仕事をしている私が家族から「こたつ地蔵」と呼ばれるようになって久しい。
運動不足がたたり、身体のあちこちが痛くなるのでできるだけ散歩を心がけるようになった。すると、やたらと子どもに話しかけられる。直近でも2回は話しかけられた。
決して話しやすそうな雰囲気というわけでもないと思う。確かに自分の見た目は童顔で怖くはなさそうだと思うけれど、マスクもしているしイヤホンで音楽も聴いてる。いかにも「話しかけるな」というオーラが出ていたと思うけれど、子どもにとってはそんなことお構いなしだ。
私は姉妹や従兄弟の中でも年下で、子どもとの接し方がわからないまま大人になったパターンの人間である。だから子ども相手でさえ人見知りをしてしまうのだけれど、実は子どもと話すこと自体は好きだったりする。私は子ども相手にやるような話し方が恥ずかしくて出来ないから、いつも対等に話をするようにしている。実際、子どもたちの話は子どもだからとバカにできるようなものではないのだ。
ここでは、備忘録も兼ねて、2人の子どもたちとの話を紹介したい。
レモンを食べるのはおかしい?ーA君の場合ー
ある日、散歩をしたくて姉と公園に出かけていた。最近オープンしたらしいカフェが近くにあるので、そこのレモネードがどうしても飲みたかったのだ。
姉と2人、レモネードを買って公園のベンチに腰掛ける。桜が綺麗な日だった。学校は春休みなのか、幼稚園~小学生くらいの子どもたちが大勢あそびに来ていた。
すると、1人の少年が私たちの前で乗っていたキックスケーターを止めた。
「こんにちは」
ふいに話しかけられてぽかんとする私たちの前には、5~6歳くらいの小さな男の子が立っている。
「何飲んでるの?」
彼は私たちが飲んでいる飲み物に興味津々の様子。実は、私たちがレモネードを買っている時にも、彼が遠目にこちらをじーっと見ていたのを私も気づいていた。
「レモネードだよ。レモンが入ってるの。」
「ふーん」
男の子は首を少しかしげて何かを考えているようだった。少しの沈黙ののち、彼はくすっと笑いながらこう言って去っていった。
「レモンをコップに入れて食べるの、おかしくない?」
そのまま笑顔を浮かべてお得意のキックボードでさーっと去っていく。彼を見送りながら私たちはあっけに取られていたが、すぐに爆笑した。
食べてるわけではないんだけど・・・・・・そっか、うん、確かにおかしい!笑
私たちの中にはすでにレモンが飲み物になるという常識があったし、レモネードという言葉が辞書にあったけれど、彼にとってレモンは酸っぱい果物で食べるようなものではないのだ。もしくは、コップじゃなくてお皿で食べるものと思ったのかもしれない。
そんな斜め上から来る発想も、まだレモネードというものが辞書にない真っ白な彼の心も私はすごく素敵だと思うし、面白いと思う。私は文章を書くのが好きだから発想はいつでも柔軟でありたいと考えているけれど、彼には敵わないや!と一本とられた。大人がいくら考えてもそんな考え方はきっと出来ないだろう。
あなたは大人ですか?から始まるコミュニケーション ーBちゃんの場合ー
またとある日、私が散歩から帰ろうと家の前まで来ると、突然うしろから声をかけられた。
「こんにちは」
また子どもだ。人見知りの私は「最近の子どもは気軽に人に声をかけられてすごいなあ」とのんきに感心していた。
話しかけてきたのは、小学校低学年くらいの女の子。マスクしてる・イヤホンしてる・話しかけるなオーラ出てる自分によく、話しかけられたなあ。そんなことを思っていたら、唐突な質問に一瞬たじろいでしまった。
「何歳ですか?」
私は童顔でいつも若く見られるけど、正直に答えた。
「〇〇歳。」
どんな反応をされるかな?そんなことを考えていたが、やはりというべきか彼女の反応は考えていたものとは全然違った。
「っていうことはー・・・・・・大人?」
「・・・・・・。うん、大人!」
そっか、彼女から見える目線では、まず私が大人なのか子どもなのかという判断から入るのか、と驚かされた。
「じゃあ、結婚してる?」
「うん、してるよ」
「じゃあー・・・・・・もう子ども生まれた?」
「うんん、子どもはいないー」
すごく興味深いなと感じた。大人から連想されることの1つに結婚があり、結婚の先には子どもがある。もちろん、結婚してるか否かでその人を判断することはできないのだけれど、今はそういうことを言いたいわけではない。そんなふうに発想が動いていくのだ、と普段は交流することのない子どもの意識の移ろいに、純粋に関心をもった。
とてもパーソナルなおしゃべりも、変なバイアスなく話せるこの子となら楽しいなと思って、私も相手にボールをパスした。
「いま何歳?」
「7歳。この間小学2年生になったんだー」
「学校の帰りなの?」
「うんん、ダンスやってるから、その帰り。暑かったー」
そっか~、と相槌を打ちながら同じマンションに入っていく。
「何階?」
エレベーターの中でそう聞かれて「〇階」と答えると、彼女は私の降りる階のボタンを押してくれる。やさしいんだなあ、と思ってお礼を伝えて「ダンスやってるのすごいねえ」と世間話を続けた。
「公文もやってるから、結構大変」
そう答える彼女は、小さいながらにダンスに勉強にと頑張っているみたいだった。「忙しいんだね~」と言って、彼女が降りる階に到着する。
「バイバイ!」
「うん、またね!」
同じマンションに住む彼女と帰り道を少しの間ともにして、私も帰宅した。家に帰るまでの束の間、私は良い話し相手になれたのかなあ?とふわふわした気持ちになった。
知らないことは自由であることなのかもしれない
大人になるにつれ、知らないことは恥ずかしいことになっていく。だけど、2人の見知らぬ子どもたちと話して、私は「知らないって自由でもあるのかもしれない」と思った。
レモンを食べるなんておかしいなって思える感情。
この人は大人なの?から始まるコミュニケーション。
成長していく中でなくしていく真っ新なキャンバスの余白を彼らはたくさん持っているように思えた。それに触れられた私は、こんな体験初めてで、非日常的で、とっても刺激的だった。
彼らも、いつかはそんな発想や思考を常識に書き換えていくのだろう。それが社会で生きていくということだから。だけど、発想や感動をこそ大事にしたいと思っている私にとって、子どもたちと接して得られたインスピレーションは爆発的だった。私の常識をぶちぬいてきた。
子どもを持つ家庭なら、こんなことも日常茶飯事なのかもしれない。でも、子どももいない大人の私にとって子どもたちの言葉1つ1つは感動のかたまりだった。きっと家庭の中でこうした言葉が生まれては消えていっているんだろう。そんな宝物みたいな言葉を、私が記録しておけたら、と惜しく思った春の日だった。