ダイバーシティな江波小学校
私が小学生だった昭和の時代はまさにダイバーシティな多様性のかたまりのような小学校でした。
クラスには中国電力の重役の子息から生活保護を受ける自宅に白黒テレビすら無いあばら屋住まいの子供までいました。発達障害の子供もいれば東京から転校してきたえらくハイカラな子供もいました。全身火傷の子供もいれば、片目を失明した子供もいました。韓国、北朝鮮籍の子供もいれば片親の黒人との混血児の子供もいました。
それを普通と受け入れていました。そういったものを意識するようになるのは、裕福な家庭の子供が中学受験して私学に進むために教室からいなくなることが増え、発達障害の子供が特殊学級が出来て別の教室に移動するようになる小学校高学年からでした。
江波の町は古くからの漁師町で漁業特にカキ養殖に携わる人や、三菱重工やその協力会社に勤める工員や、中国電力の社宅があったのでその社員、さらに国家公務員の官舎があったので転勤してくる色んな地方の人たちがいました。
教師も戦前からの代用教員の先生から被爆者で顔にケロイドのある先生、大学で学生運動やってた先生に、逆に元軍人の先生までいました。
反戦平和教育とか特に無く、沖縄海洋博に合せて建造されたアクロポリスを小学校の社会見学で見に行った記憶があります。あれ?あれは幼稚園のときだったかな?
そんな江波小学校が赤一色に染まったのが1975年の広島東洋カープの初優勝。多くの生徒は真っ赤な帽子をかぶり鉛筆に至るまで真っ赤でカープの選手のサインが印刷されていて巨人ファンや阪神ファン南海ファンの子女たちは肩身の狭い思いをしているのでした。
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