今の僕たちは使い方を知らない子供が機関銃を手にしているようなものだ
昨日、やや遠方に住んでいる長い付き合いの親友を久しぶりに訪ねた。
彼と出会ったのは、もう17年くらい前になる。僕が仙台で大学院生をしていた頃、就職活動のために都内の学生グループに参加して、情報交換や普段会えない政治家やビジネスマンと交流する機会を頂いていたのだけれども、彼もそのチームに参加していたのだった。
仙台から高速バスで遠路はるばるやってくる僕を毎回アパートに泊めてくれて、レンタルしてきた映画のDVDを垂れ流しながら(「ナビィの恋」とか「黄泉がえり」とか、普通の邦画だ。竹内結子さんが亡くなられたニュースに触れた時、僕がまっさきに思い出したのは「黄泉がえり」を観ていた彼の部屋の様子だった)、僕たちはダラダラと夜通し色々な話をした。そんな付き合いが今もまだダラダラと続いている感じで、数年ぶりに再開してもそれは少しも変わらない。
いま彼は心身のケアを専門にしていて、個人でのカウンセリングやコンサルティングをかれこれ10年以上も続けている。
僕も最近ようやく自分の進むべき方向性を固めたというか、「歩く人」として生きていくことを決めたので、昨日はその報告や近況などを語り合った。
歩くことについては彼も色々と思うところがあったようで、実際に歩く瞑想を心身ケアのプランに取り入れているらしい。6時間くらいぶっ通しで話し続けていたのだけれども、やはり中心的な話題は、これからの時代は人としての自然なあり方を知ることが特に大切になること、そして人間がテクノロジーに使われる時代から、人間がテクノロジーを自分たちのために使う時代にしていかなければならないということだった。
そのために、僕たちはもっと精神的に大人になる必要がある。今の僕たちは、その使い方を知らない子供が機関銃を手にしているようなものだと彼は言ったけれども、僕もまさにそうだと思う。
少しでも変えていくために、言論として高みから語るのではなく、自分の出来るところから具体的に実践していくこと。彼はまさに実践者だし、僕も実践者として歩き出したところだから、これから色々と協力してやっていきたいし、親友と肩を組んで歩んでいけるのは嬉しいことだと思う。
この一年は新しい出会いの多い一年だったけれども、古い付き合いもまた新しい形で進めていけることになりそうで、様々なことが結びついていく面白さと有り難さを噛み締めている。
僕はこれから「歩く」ことが持つ多様な要素を一つ一つ実践に取り入れて行きたいと考えている。
それは瞑想だったり、マインドフルネスだったり、あるいはヨガ?だったりするのかもしれないし、運動としての歩行もそうだし、内観としての歩行もそうだし、あるいは移動としての歩行もそうだし、ただの散歩もそうだし、もちろん日々の日常での何気ない「歩く」時間もそうだけれども、自分が「歩く」について持つ考えに固執せず、多様なものを取り入れていけるようにしたい。
僕は医者でも修行僧でもないから、医学的なウォーキングや、禅的なウォーキングの専門家ではないけれども、幸いにも人間だから「歩く」ことのそのものの専門家にはなれると思っている。
それはいわゆるプロフェッショナルという意味ではなく、探求者、求道者という意味での実践者だ。
こうして「歩く」ことについて書くこともまた、「歩く」ことを見つめる機会になってくれる。書くことはどこか、歩くことに似ていると思う。
僕らはみんな「歩く人」なのだ。少なくとも人間であれば、別け隔てなく。
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