「歩くために歩く」とは言葉にならない世界を言葉にしないまま生きる覚悟をすること
先日27日の土曜日、第10回「湘南を歩く人」を久しぶりに開催しました。
「天園を歩く人」と題して、鎌倉の北側を囲む山々の尾根沿いの道を歩きました。
「湘南を歩く人」、緊急事態宣言中は故あってお休みしていましたが、いつの間にやら春になっていたようです。
この間は、色々なことをじっくりと考えたり、悩んだりしていました。
それは言葉にすると溢れ落ちてしまう何かについて、だったように思います。
あるいは、言葉が切り落としている世界の広さについて。
そうした曖昧さに自然と目が向いてしまう自分自身の生き辛さについて。
そうしてあれこれ悩んで、もうこうなったら腹をくくるしかないのかもしれんと、いまに至る。
それでも、歩くことは良いものです。
歩く時に見えているもの、感じていること、考えていることを、全部言葉にするのは無理ですが、それでも僕たちはちゃんと感じている。
少なくとも歩いている最中は、言葉にならないことを、言葉にならないままに感じています。
その時に言葉にならなかったことが、いずれ本当に無かったことになるとすれば、それが過去になる瞬間でしょう。
過去は言葉で語られるものだからです。
「歩くために歩く」とは、言葉にならない世界を言葉にしないまま生きる覚悟をすることです。
語り得ないことについては沈黙しなければならない、としても、沈黙しながら足を動かすことはできます。なんならば、沈黙しながらも、語り得ているよりも遥かに多くの何かを感じることが出来ているのだから、語り得ることについての世界なんてよほど狭いものだと思わざる得ない。
言葉に出来る世界で、言葉だけで考えようとするから、いつも大切なことを見逃してしまう。言葉にしないことには、忍耐がいる。
何のために歩くのか、その答えを言葉にならない世界で見つけようとする忍耐です。
沈黙とは、忍耐であって欲しい。
認識できない世界は扱わないなどいう、諦めの表明ではないはずです。
一般的に、味覚は、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味、の五つの言葉で語られます。
対して、嗅覚は1000以上の匂いを嗅ぎ分けているらしいと言われます。
そしておそらく、その多くはまだ言葉になっていないか、「〇〇の匂い」といった物の名前に付随して語られる。
良い匂いとか、臭いとか、変な匂いとか、甘い匂いとか、酸っぱい匂いとか、匂いそのものを語る言葉は、かなり大雑把なようです。
実際には、味覚も五つどころか、嗅覚や触覚と合わさって、数百や数千種類にもなっていくのでしょうし、嗅覚だってもっと細かく分ければ千以上の匂いを嗅ぎ分けることが出来ているのかもしれません。
味覚にも、五つ以上の言葉を私たちは使っているはずです。
それでも、味覚の基本的な言葉は五つです。
この五つの言葉を使って味覚に関するコミュニケーションを取るとき、おそらくは嗅覚にも劣らないであろう味覚の細やかなグラデーションは、どこかで削ぎ落とされていきます。嗅覚の言葉と比べると、言葉自体の曖昧さの許容度が低いように感じられます。
味覚に関わる五つの言葉は、聴覚に関する十二平均律と同じ意味の、ある種の科学の言葉であるということには、明確な意識を持っていたいと思います。
逆に言えば、嗅覚の言葉の持つ曖昧さを信頼することには意味がありそうにも思われます。
匂いに対してどんな言葉を普段使っているのか、その味覚の言葉との違いを、忍耐強く立ち止まって考えてみれば、いずれは見えてくるものがあるかもしれません。
効果的な言葉を効率的にお金と交換できることが現代の資本主義の理想の姿だとするならば、あの醜悪な何とかパレードも、女性に豚を演じさせて”ウケ”を狙う感覚の浅はかさも、根っこは同じでしょう。
都市を埋め尽くす言葉の森が、どこから養分を得ているか。
そうした言葉の森が、僕たちの社会を養い、支配していることについて、どう考えれば良いのか。
僕にはまだわかりません。
言葉のない森を歩き続けるしかないのかもしれません。
さて、次回は4月11日(日)かな、再び鎌倉の山を歩く予定です。
今回とは別のところから山に入ってみたいと思います。
新しいルートを発掘してみましょう!
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