レイ・ブラッドベリが描いた「歩く人」の未来
「歩く」をテーマにした「道草の家の文章教室」で、案内人の下窪さんがレイ・ブラッドベリの「歩行者」という短編を紹介してくれた。
ハヤカワ文庫の『太陽の黄金の林檎』に収録されている小編で、2053年の未来を描いている。
主人公のレナード・ミードは、散歩を最大の楽しみにしている。静かな夜を何時間も、ただ歩くために歩くこと。
2053年の世界は、歩く人は他にひとりいない。10年以上も散歩を続けても、ミードが他に歩く人を見かけることは一度もない。
そんなミードに突然ヘッドライトの眩しい光があたって、警察車から「手を上げろ! 動くな! お前はここで何をしている!」と尋問の声が響く。
ただ歩くために、歩いていた。いい空気を吸い、いい景色を見るために歩いていた。そう答えるミード。
そんな理屈は存在しない、とばかりに警察車は言う。
いい空気を吸うためのエア・コンディショナーがあり、いい景色を見るための電子スクリーンがある。そんなことは全部家にいながら効率的に体感できる、と。
全てがシステム化され、効率的なシステムによって人間が望むことすべてを家にいながら享受できる幸福な未来社会にあって、「ただ歩くために歩く」などいう非効率的行為は実に無駄であり、危険であり、古い精神の残滓であり、後退した人間の証なのであった。
かくしてミードは不審者として無人の警察車に連行されていく。先進社会に置いていかれた精神的後退者を研究するための施設へと。
レイ・ブラッドベリが描いた「ただ歩くために歩く人」の未来。
無意味・無価値なことを究極までに削ぎ落とし、効率化された未来は、今の社会が進もうとしているデジタルトランスフォーメーション(DXという)の行き着く先を、どこか連想させるもののように感じて、笑えない未来だと僕は思った。
18世紀後半に産業革命を起こした人たちは、それによって人類が幸福になると信じていたと思う。労働時間が減り、余暇が増え、人間性を育む活動(それが何かはわからないが)に勤しむことが出来ると。
それから約250年経って、インターネットによって効率化がさらに進んだ現代。当時思い描いていたような幸福な未来を、僕たちは生きているだろうか?
物質的には、明らかに幸福になったと思う。産業革命を起こした人たちが描いていた未来が、誰もがモノに満たされた世界であるならば、これはきっと幸福な未来だし、これには感謝しなければならない。
でも、やっぱり僕たちは、何か不足を感じてもいる。
「ただ歩くために歩く」ことでレナード・ミードが得ていたような、楽しみ。自分の足で歩いて、自分の肺でいい空気を吸い、自分の目でいい景色を見ること。何も生み出さないけれども、僕たちにとって大切な時間がそこにある。
例えば、何かを作るときに、効率的に自動でやれることが本当に良いことなのか、という疑問を持ってみる。
それは何にとって良いことなのか?
生産する企業が利益を上げるために良いこと。人件費を削減するために良いこと。競争で勝つために良いこと、だったりする。
では、例えば僕たちが手仕事で何かを作ることは、良いことではないのか・・・?
効率化を突き詰めて行けば、それは無駄なことになるから、良いことではない。もちろん、一人ひとりが楽しみで作ることまでを否定する社会にはならないだろうけれども、大きな利益にならないものは、無駄とされてしまう。
実際、僕たちは自分たちの手を動かして何かを作る楽しみを、これまでもかなりの部分で失って来ている。
「自分が何をしたいかわからない」
「自分にできることがない」
という言葉は、今の細分化された社会の中で自分に当てはまる仕事や役割がない、という考えから来るものだけれども、無駄とされることを楽しむ事ができれば、実は出来ることはたくさんあると思う。
どうしてやらないのか、それは「そんなことをやってもお金にならないし、食っていけない」からだ。
いつから「お金にならない、食っていけないことはやってはいけない」世界になったんだろう?
ただ作ること。自分のために作り、自分の身近な人のために、必要な分だけ作って、分けていくこと。それだって昔は、僕たちの活動だった。手仕事にやりがいと楽しみを見出してきた人たちがたくさんいただろうし、それが彼らにとって生きることだったんじゃないかな。
手仕事を奪うってことは、生きることを奪うってことなんじゃないか?
最近はそんなことを思ったりする。デジタル化って、本当に良いことづくめなんだろうか?
寝っ転がっているだけで全てのモノに満たされた生活が本当に理想的なのかってことは、よく考えてみたほうが良い。
レナード・ミードが歩いている世界は、ミード以外の登場人物は誰も出てこないし、散歩する住宅街の明かりが煌々とついた室内で、未来の人々がどんな生活をしているのかは描かれていない。
これは僕の想像でしかないけれども、おそらく、その中に人はいないか、あるいはもう死んでいるか、そのどちらかだろう。
人間のためよりも、システムが効率的に動くことが目的になった社会が行き着くレイ・ブラッドベリのような世界に、僕たちはすでに片足を突っ込んでいる。
といっても僕は現代文明批判みたいなことを結構書いているけれども、それらを否定するつもりは毛ほどもなく、大きな流れには逆らうことは出来ないし、受け入れていく必要があると思っている。
だから、そのシステムをシステムのために使うのでなくて、人間を幸せにするのための道具として使えるようなやり方を考えたいと思っていて、そのためには無駄とされる活動の中にある人間にとって本当に大事なことを拾い集めていくことが大事なんじゃないかなと思う。
レイ・ブラッドベリが書いてくれたのが僕はとても嬉しかったのだけれども、「ただ歩くために、歩くこと」は、大事なことの一つだよ。きっと。
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