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歩く人③

実は言葉をあまり信用していない。
と、いきなり何のこっちゃって感じだと思うし、今これを書いているのも言葉じゃん! というもどかしさもあるのだけれども。

以前文章教室について書いたnoteで(⇒リンク)、「一つの言葉が、人によって全く違う意味を帯びてくることがとても面白」い、ということを書いたけれども、それと同時に、実はとても危ないことでもあると思っている。
これは文章教室に行くずっと前から、十数年くらいずっと考え続けていることで、特に20代のころ、記者をやっていた時には、言葉の浮遊力の強さについてかなり悩んだ。

言葉の抽象度は僕たちが考えているよりもずっと高い。発した本人の意図を容易に飛び越え、人から人へと伝播する中で意味が変わり、そして強くなっていく。弱くなることは少ない。
それは、いま流行しているウイルスに似ている。その一方で、ウイルスよりも、日々拡散し、拡大して空中戦を繰り広げる言葉の群れの方が、ずっとやっかいだと感じている人も多い。言葉に疲弊している人の多さ。

正しさを押し付けてくるような、大きな言葉、強い言葉が苦手だ。
自分の足場のない、観念的な正義。言葉は、足場が無くても誰もが登れる高台を作ってくれる。クレーンのように高みに釣り上げてくれる。
それは時にとても便利だけれども、その高さは、本当に自分のものだろう? 自分が生きてきた中で、時間をかけて確かに踏み固めてきた地面が足元にあるだろうか?

過剰に摂取された言葉は、人の意識を簡単に太らせる。精神の脂肪のようなものだと思う。

自分が言葉という手段から離れて、絵や映像を仕事に選んだのは、出来るだけ言葉を使いたくなかったからだった。
それは正解だったと思う。ビジュアルという手段を手に入れたことで、言葉から少し離れたところで、執着もなく、その働きを眺めることができるようになった気がするから。少なくとも、生きることがとても楽になった。

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と、いってもやっぱり僕たちは言葉を使うしかないとも思う。コミュニケーションの最大の手段はやっぱり言葉だから。

だから、自分で信用できる言葉が欲しい。自分が生きていく中で、確かだと思える言葉を使っていきたい。確かだと思えないのならば、それは言葉にしなくてもいい。「語りえないことについては沈黙しなければならない」と言った哲学者もいるけれども、コミュニケーションで急に沈黙すると相手も困っちゃうだろうから、ごめんねそれは分からない、と判断保留すれば良いと思う。その方が誠実だ。
人の発している言葉が、その人のどこから生まれた言葉なのか、その奥を見るようにすれば、信頼できるかできないかを自分で判断できるようになると思う。

誠実な言葉からは、その人の生きてきた姿が見えるような気がする。
そういう言葉は好きだし、そういう言葉を使う人も好きだ。
自分も出来る限りそうありたいと願う。

自分の場合、その鍵のひとつは、歩くことにあると思う。
多分、この鍵のありかはみんなそれぞれ、場所もその数も違うのだろうけれども。
でも、もしかしたら歩くことは、僕たちにとって、共通の鍵のひとつになりうるかもれない、という希望もある。
(もうひとつの鍵は声であり、歌だと思っているけれども、それはまたどこかで書こう。)

誤解を恐れずにあえて言うならば、原初の記憶にアクセスする鍵、とでも言ったら良いのかな・・・?

ちょっと言葉が走りすぎてしまった。
いま少し、この可能性を探るために、歩くことに戻っていこう。

(つづく、かもしれないし、つづかない、かもしれない)

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miuraZen
歩く人

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。

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