歩く人⑤
最近は絵を描く手を休めて、写真ばかり撮っている。
歩くことと写真を撮ることは、かなり相性が良いようで、昼も夜もブラブラと歩きながら、道すがら気になったものを、特にこだわりなく撮る。ついでのようなものだから、作品作りのためとか、良い写真を撮りたいとか、そういう強い気持ちは特に無い。
SONYのRX100M3という手のひらサイズのデジカメを一つ、ポケットに忍ばせて、あとはひたすら歩く。気になるものが目に入ったら、すっとカメラを取り出して2,3枚パパッと写し、また歩き出す。
それで済むのが良い。歩くことを邪魔しないのが良い。絵だとどうしても立ち止まる時間が長くなってしまうだろうから。
でも、歩いている時に目に留まったものたちが、どういうものだったのかは、覚えておきたいという気持ちがある。たとえその瞬間に、どれだけ良く見て歩いていたとしても、やっぱりすぐに忘れてしまうものだから。いや、忘れても良いのだろう、とも思うけれども。
とはいえ、まったく撮影にこだわってないかというと、もちろんそうではない。自分は一応映像やグラフィックを仕事にしてきたから、ちょっとした構図や絵づくりの技術は、体に染み付いている。
残念ながら、長年の仕事で身体と同一化した技術というのは、簡単には抜けないものだ。それが良いか悪いかは正直分からないけれども、歩きながら、時々立ち止まって撮るという行為を楽しんでいる自分がいるのは確かで、まあ別に良いかな、くらいに思っている。
散歩から帰って撮ったものを見返すと、写っているものはいつもまとまりなく、バラバラだ。壁の落書き、良く分からない看板、歩道橋、階段、駐車場の番号、木、電柱、ゴミ、枝、石ころ、道の終わり。多分こんなもの誰も撮らないだろうと思うような、何の変哲もないどこにでもある物たち。
何か撮りたいという強い動機も目的もないのだから、そうなる。でも、そのバラバラ加減が、なかなか面白いと自分では思う。
時々、とても魅力的な被写体が、良いタイミングで目の前に現れることもある。目が覚めるような満開の桜並木のようなもの、あるいは、ため息が出るほど美しい夕日のようなもの、とでも言おうか。
そういう時は、それなりに長い時間立ち止まって、何枚もシャッターを切ってみたりもする。良い構図、良い光、絞りとシャッタースピードを考えて、どこから取れば一番良く写るか、移動しながら撮りまくる。
ところが、とても良く撮れた様な気がして、満足して後から見返してみると、それが意外とつまらない。何故かは良く分からない。あんなに一生懸命何枚もシャッターを押したのに、一枚も現像したいと思わない。そこには、なんだかありきたりの、誰にでも撮れそうな、どこかで見たことがあるような、つまらない画像が並んでいるだけだ。
あの熱はどこへ行ってしまったのか。夢中で恋した女性への想いが、一気に冷める時のような感覚。そういうものだよな・・・、なんて人生を味わいつくしたかのような醒めたことを思ってみたりもするけれども、どこか腑に落ちない気持ちは残る。
それとは逆に、光も構図もあいまいで、手振れも酷い、本当に何気なく写した一枚に、強い魅力を感じることが多い。夜は特に、手振れが酷いけれども、むしろそれが自分にとって良い表現になっている。
撮ったときに手振れに気づいて、もう2,3枚撮りなおしてみても、結局ブレている写真を選んで現像する。ピシっとピントがあって、シャープに写しだされた写真には無い、歩いているときの感覚に近い何かを写しだしているような気がする。
それは自分が、撮ることよりも、歩くことを大切にしているからだろうと思う。暗闇によって視覚が極端に制限される夜は、視覚以外の感覚が日中よりもはるかに敏感に働く。音は大きく、匂いは強く。冷えた風が気温の下降を知らせ、その寒さが、何故か気持ちを不安にさせる。早く帰りたい、と思う。心の深いところで、夜と闇がもたらす本質的な恐怖を思い出していくような感覚。
こんなとき視界は、見えているようで見えていないのかもしれない。うす暗い光だけがぼんやりと写しだされた写真を見返すとき、そうした感覚がふと蘇ってくるのは、自然と急ぎ足になっている自分から見えた曖昧な闇の世界が、よりリアルに感じられるからかもしれない。
恐らく、撮る、という行為と表現を主眼とするならば、自分はむしろ撮らなくなるだろうと思う。
20代の頃、生意気にも当時最新だったフルサイズの一眼レフカメラを持ち、レンズ沼なんて言葉を肌で感じるくらい、機材に恋していたこともあった。
しかし、その頃はほとんど撮影しなかった。いまとは比べ物にならないくらい良い機材を持っていたのに、それが活躍したのは友人の娘さんの運動会くらいだった。
数年前に、惜しむ気持ちもなくそれらの機材をすべて売り払ったときには、むしろすっきりしたものだった。自分にはカメラは要らないと思った。
重い機材を担ぎ、場所と時間に制限される写真というメディアには、絵のようにどこまでも想像力を羽ばたかせていけるような自由はないと思っていたから。
ちょうど一年前くらいに、仕事や絵の資料撮りのために、SONYのRX100M3を買った。資料を集めるためであり、写真を撮るためではなかった。
でも、今こうして歩きながら、ポケットサイズのカメラで気軽にパチパチ写していると、思っていたほど写真も悪くないと思う。むしろ良い。
写真はその人を写す鏡とか、魂で撮るもの、とかそういう言葉もあるけれども、おそらくすべて迷信だと思う。単なるシャッターを押すという行為を、そんなに重く考えることもないだろう。
(※何事も必要以上に神格化しない、というのは自分のモットーだ)
ただ気軽に、シャッターを押す。カメラの機構によって、目の前の物が写る。それだけだし、それだけで楽しい。
そして、気軽に撮ったものほど良い写真に思えるのも、また不思議で面白い。
余談だが、今日は散歩ついでにビッグカメラに寄って、何か良いカメラはないか見てきたけれども、やはりどれも大きくてダメだと思った。
今のカメラが良い。ポケットに収まって歩く邪魔をしないカメラ。これが自分には最適だ。
SONYのRX100M3、とても良いカメラだと思います(宣伝ではない)。
それに、撮影よりも現像のほうが、作り手の嗜好を写すかもしれない、とも思ったりする。そこは表現の遊び場のようなもので、撮るとはまた別の楽しみがあるから。これについては、またどこかで書けたらと思う。
(つづくよ)
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miuraZen
歩く人
描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。
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