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もし散歩がオリンピック競技になったら

僕は散歩が好きで、暇を見つけてはぶらぶらとそこらへんを歩いている。
そんな僕の将来の夢は、ただ歩くこと、すなわち「散歩」を華々しいオリンピック競技にすることだ! と言っても過言ではない。たぶん。

散歩はオリンピック競技になるだろうか?
どうすれば散歩をオリンピック競技に出来るだろうか?

まず、競歩は論外だ。
競歩は歩く速さを競う競技だから、そもそも散歩ではない。
散歩とは、ただぶらぶら歩くこと、である。
散歩で歩く速さは問題にならないし、タイムも関係ない。速くゴールした順番で順位を付けることに意味はないのだ。

しかし、オリンピック競技にするためには、何らかの形で順位を付ける必要がある。
でないと、金銀銅のメダルを渡すことが出来ないし、そもそも各国の代表選手を選考することすらできない。
歩いた人は「みんな最高!みんな金メダルだよ!」でも僕個人は全然構わないのだけれども、残念ながらそれではオリンピック競技にはならないだろう。
それでは僕の夢は叶わない。

オリエンテーリング形式はどうだろう?
チェックポイントをどれだけ短時間で回れたかを競う。
しかし、チェックポイントを回った数とゴールまでの時間を競っている時点で、散歩と言えるのか怪しい。
散歩とは、ただぶらぶら歩くこと、である。
散歩中にチェックポイントを回る、という個人的な目的があっても良いかもしれないが、別に回らなくても良いはずだ。
チェックポイントを回ったから良い散歩、回らないから悪い散歩、ということもないだろう。
もちろん時間は関係ない。
だって散歩なのだから。

となると、散歩をオリンピック競技にするには、フィギュアスケート形式が最も良さそうに思える。
散歩者がどれだけ素晴らしい散歩をしたかを「技術点+演技構成点ー減点」という形式で審査員がスコアを付け、もっとも高いスコアをだした散歩者が金メダルだ。
(フィギュアスケートの採点について、以下の記事を参考にしました)


よしOK! これなら出来そうな気がする。
夢が近づいてきた!

・・・が、少し考えてみると、これにもどうやら問題がありそうだ。
技術点、演技構成点、減点の内訳をどうするかがとても難しい。
ひとつずつ考えてみよう。

まずは技術点。
フィギュアスケートのそれはかなり細かく再分化されていて、例えばジャンプごとに基礎点と出来栄え点というものが厳密に決められている。
例えば、ダブルアクセルの基礎点は3.3。4回転ループの基礎点は10.5といった具合だ。さらにそのジャンプの出来栄えを、審査員がプラス5からマイナス5の11段階で評価することで、最終的な点数が決まるようになっている。

散歩の基礎点と出来栄え点をどう決めるか。
歩く速度や道順、掛かった時間などは問題にならないのだから、何か別の尺度が必要だ。
そこで唯一の尺度は「散歩者がどれだけ豊かな散歩の時間を送ったか」だろう。
つまり、審査員が見て「これはまさに素晴らしい散歩だ!」と評価できることが加点につながる、というわけだ。

そこで技術点の加点要素をリストアップしてみよう。
・道端で綺麗な花を見つける    ・・・3.3点
・道端で野良猫と出会う      ・・・7.5点
・知らなかった裏道を発見     ・・・5.8点
・道草して喫茶店でコーヒー    ・・・6.4点
・今日は青空で気持ちがいい    ・・・9.2点
・今日はあいにくの雨模様だ    ・・・9.2点
・明日の仕事に使える
 素晴らしいアイディアが思いついた・・・10.5点
・何も思いつかなかった      ・・・10.5点

と、まあこんな具合で並べていくことが出来るだろう。
晴れでも雨でも散歩は良いものだし、晴れが好きな人、雨が好きな人がいて、それぞれに良さを感じられるのだから、どの天気でも加点は同じポイントになるだろう。
アイディアを思いつこうが、思いつかなかろうが、どちらがより豊かな散歩ということもないのだから、もちろん同じ点数だ。公平である。

これに出来栄え点を加える。
例えば、道端で野良猫に出会ったとして、
・その野良猫が懐いてきた ・・・+5点
・野良猫にシャー!された ・・・-5点
・野良猫が昼寝をしていた ・・・+2点
・野良猫に子猫がいた!  ・・・+100点

と、まあこんな具合だろうか。
だが、これもなかなか難しい。
野良猫にシャー!されても、それが当人にも審査員にも豊かな散歩と思えることもあるかもしれないから、そのときは+5点になるだろう。
喫茶店のコーヒーが美味しかったら+5点、でも不味かったら?-5点? いや、仮にコーヒーが不味くても、それはそれで悪い散歩とも言えない。

僕の課題、というか散歩をオリンピック競技にしようと目論む全ての人々の課題は、全世界的に公平であり、世界中の誰しもが素晴らしい散歩と評価できる客観的な尺度を作ることだ。
草花がサボテンくらいしか咲いておらず、店舗も住居もほとんど存在しない砂漠を散歩する人と、南米の密林の奥地を散歩する人と、グリーンランドの氷の大地を散歩する人と、ニューヨークのマンハッタンを散歩する人を、公平に評価しなければならないだろう。

その場合、技術点の加点要素が何個になるか、正直想像が付かない。1万では足りない気がする。1億? あるいはもっとたくさん・・・?
ちょっと卒倒するレベルの天文学的数値になりそうな気がする。
これはなかなかの大仕事だ。僕だったら絶対審査員になりたくない。

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次に、演技構成点。
フィギュアスケートのそれは、①スケートの技術②技のつなぎ③演技表現④振り付け⑤音楽の解釈、で評価される。

散歩にこれを当てはめるなら、
①散歩技術、②散歩道のつなぎ方、③散歩の表現、④歩き方、⑤散歩の解釈
といった具合だろうか。

僕から言っておいて大変申し訳ないのだが、自分でも意味が分からない。
てか、どれも好きにしろよって感じだ。

散歩の技術ってなんだろう?
これを考えてみるだけでもかなり面白そうだけれども、採点できるかどうかは分からない。


最後に、減点。
これはとても簡単だ。散歩に減点はない。あり得ない。
散歩道で出会う全て、起きるすべてのことが、散歩だ。偶然も必然も、どれも素晴らしい。
例えば突然のゲリラ豪雨に降られたとして、それが通勤時とかならまだしも、散歩だったら、どこかで雨宿りでもしてみたら、その時間もきっと楽しめるだろう。お店の軒下や、大きな木の下で雨宿りするのはなかなか楽しいものだ。大人だったら、子供の頃の記憶がよみがえってきて、懐かしい気持ちになることもあるかもしれない。
仮に本人がそれでちょっと嫌な気持ちになったとしても、別にそれでも減点にはならない。思い通りにならないこともまた、散歩の醍醐味なのだから。
散歩は何があっても、何に出会っても、どこまでいっても全てが加点、加点、加点、の競技なのだ。

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さて、ここまで、散歩をオリンピックにするために必要な評価基準について書いてきたが、ではどんな散歩をした散歩者が、一番金メダルにふさわしいだろうか・・・?

・・・
・・・
・・・

みんな金メダルだよ!!!


すいません、ここまで長々とくだらない妄想を書いてきたけれども、散歩はオリンピック競技になるだろうか?の答えは、みなさんお察しの通り、もちろんNOだ。

散歩、すなわち歩くということは、プロフェッショナルが存在しない、すべての人がアマチュアな行為だと僕は思っている。
(競歩は厳密に言えば歩行というよりは走法の一つだと考えている)

人間生活のあらゆる行為、あらゆる行動が、競争という価値観に晒され、優劣を付けられ、金銭的価値に変えられていく現代にあって、散歩という行為は、僕たちに残された数少ない「それだけを行い楽しむことを絶対的に許された行為」の一つだ。

趣味で絵を描くにしても、趣味でスポーツをするにしても、家で料理をすることさえも、さらには家の掃除や片づけ方や夕食の材料の買い方ですらも、僕たちは他人と比べて上手さや巧みさや効率を気にしてしまうし、何かにつけて、初心者、中級者、上級者というランクをつけたがる。
それだけを楽しむということは、現代社会ではとても難しいのだ。
他者と比較をせず、自分だけの楽しみを見つけようと言っても、この社会に蔓延する価値観が、それを容易に許してはくれないから。

でも散歩ならば、誰かと比べる必要もなければ、優劣を付ける必要もない。
というか、これまで散歩で他人と競争したことがある人はいるだろうか?

「僕の方があいつよりも素晴らしい散歩をしている!」
「僕の散歩は全然レベルが低い、憧れのあの人の足元にも及ばない!」
「あいつの散歩はなっていない!なんて最低な散歩だ!あんな散歩が許されてたまるか!」
「ライバルに差をつける効率的な散歩の方法を知りたい!」

なんてことを考えたことがある人はいるだろうか?
おそらく相当少ないか、ほとんどいないだろう。
僕もそんな人に出会ったことは一度もない。
散歩に対して、そんな価値観を持っている人がほとんどいないからだ。

だからこそ、僕は散歩を勧めたいし、歩くことをもっとみんなに勧めたい。
仕事ではある程度仕方がないとしても、仕事以外の日常では、競争や比較から離れた時間をなるだけたくさん持てたら良いと思っている。

「それだけを行い楽しむことを絶対的に許された行為」が、いまどれだけ残されているか。
これはおそらく、僕たちが思っている以上に少ない。

もし、散歩以外にもそれを知っている人がいたら、是非教えてほしい。
『まとまらない人』の坂口恭平さんが最近作っている「畑」も、それかもしれない。
そういうものが、ひとつでも多くあってくれたら、僕たちは現代社会からのわずかな逃げ道を、そこに見つけることが出来るはずだ。

これからの世界で、僕たちの心を助けてくれる道があるとすれば、きっとそういうところの先に開けていくだろうと、僕は思っている。

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miuraZen
歩く人

描いたり書いたり弾いたり作ったり歌ったり読んだり呑んだりまったりして生きています。
趣味でサラリーマンやってます。

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