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ゴンちゃんの探検学校

わずか11歳でキリマンジャロを登頂。フリースタイルスキー、モーグル競技では10年間にわたり全日本タイトル獲得や国際大会で活躍。引退後は冬季オリンピックやフリースタイルワールドカッ…
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2020年7月の記事一覧

最高の手巻き寿司

2008年7月5日に日経新聞夕刊に掲載されたものを修正加筆したものです。 2008年5月21日、僕たちはアタックのためにC1を出発してC2に向かおうとしていた。出発が予定より少し遅れてしまったせいか、強烈な日差しが「氷の砂漠」と呼ばれるウェスタンクームの氷河を照らしていた。ヒマラヤは寒いイメージがあるが、このウェスタンクームは左手にエベレストの西陵、右にヌプツェ、そして正面にローツェに囲まれた谷底にあり、反射された太陽の光は容赦なくすべてそこを歩く者を照らす。そのため太陽が

「登頂」の意味の重さ

2008年6月28日に日経新聞夕刊に掲載されたものを修正加筆したものです。  極地で人がどのように死にいたるか、ということを扱った小説「ラストブレス」には高高度脳浮腫によってそこにいるはずの無い人が話しかけてくる「幻の登山仲間」と会話を交わす場面があった。その中で、幻のドイツ人に話しかけられ間違った道を教えられ遭難したり、病院に運ばれた後、病室で何度もマリリンモンローを見かけたなど、脳の錯乱が引き起こした具体例が紹介されていた。

不思議な声に導かれ

2008年6月21日日経新聞夕刊に掲載されたものを修正加筆したものです。  僕は事もあろうか、8200㍍の高所で肺浮腫と脳浮腫を併発していた。脳浮腫という症状は低酸素状態が続く時に起きる場合が多い。そのため、肺水腫と併発するのは珍しくないが、すべての肺水腫が脳浮腫となるわけではないので、これはやはり貴重な体験といえるだろう。そんな貴重な体験をしている自分であったが、その事を喜ぶ以前に早く高度を下げなければいけなかった。

遠のく意識、下山急ぐ

2008年6月14日に日経新聞夕刊に掲載されたものを修正加筆したものです。  地球で最も高い峠であるエベレスト・サウスコルの標高8000㍍地点で、僕は自分の高山病診断を誤った。前日まで痰に血が混ざっていたので肺水腫と疑っていたが、朝になると咳も比較的収まり、前日のようにひどい動悸もなかった。僕はすっかり自分が肺水腫であるという可能性を希望的観測により否定していたのだ。

肺水腫の恐怖 徐々に

2008年6月7日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。  高山病の「高所脳浮腫」で倒れる前日の5月25日、僕はエベレストの第3キャンプ(7300㍍)から7600㍍地点まで酸素ボンベを使わずに登ることに決めていた。5年前の登頂では、7500㍍地点の第3キャンプの上までボンベなしで登った。体調が良かった今回は、あえてその上の標高を目標にした。

父の登頂 立ち会えず

2008年5月31日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。  5月26日、ネパールの現地時間で午前7時33分。強度の不整脈を2度の心臓手術で克服した三浦雄一郎は、75歳にして地球の最高峰であるエベレストの山頂に(標高8848㍍)に立った。  僕と父が初めてエベレスト登頂計画を立てたのは8年前のことだ。3年後、父が70歳の時に僕たちは登頂を果たしたが、あいにくの悪天候で、最高峰からの景観を満喫できなかった。そこで持ち上がった今回の再挑戦。でも僕は、父が登頂した瞬間、そばにいる

いつにも増して不安

2008年5月24日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。  この記事か掲載される頃(2008.5.24頃)、僕と父の雄一郎はエベレスト山頂に向けて最終アタック体制に入っているだろう。  標高5300㍍のベースキャンプを20日に出発した。気候や体調などの条件が整えば、大体6日で山頂にたどり着く。もっとも前回の2003年は悪天候の影響で予定より5日も多く途中のキャンプで費やしたから、登山の計画など当てにならないのだが・・・。  出発前日は最終調整に追われた。登山道具、医療機器

本当の登山マナーとは

2008年5月17日の日経新聞夕刊に掲載されたものです。  先日、平均斜度45度以上ある氷の壁を登っていたのだが、上から雪の塊や石が落ちてきて危ないので、途中でキャンプに引き返すことにした。だが落ちてきたのは雪や石だけではなかった。  突然「ギャー」という悲鳴とともに長身の外国人が転げ落ちてくるではないか。ロープに命綱をつけていたので途中で止まったが思わず身構えてしまった。  今年のエベレストは自然が引き起こす事故以上に、人間が原因となる〝人災″が多いのではないかと心配

父になって思うこと

2008年5月10日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。  4月30日、エベレストで”高度順化〟をするため標高6000㍍の第1キャンプへ登っていたとき、ベースキャプで通信を担当する兄の雄大から連絡が入った。「子供が生まれた!」。日本で生まれた僕の最初の子供は、男だった。  父の雄一郎とベースキャンプまで引き返す4時間、自分自身が父親になったことが夢のように感じられた。僕にとっての三浦雄一郎とは、ずっと、冒険における相棒であり、ライバルだった。しかし自分が親になってみた今、

シェルパへの感謝の念

2008年4月26日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。  エベレストのベースキャプに入る手前、標高4300㍍のディンボチェという村でひどい風邪にかかってしまった。酸素の薄い高所での風邪は治りが遅い。これからさらに高度をあげようとすれば、なおさらだ。  風邪に耐えつつ、高い標高に順応しようとすれば体には大きな負担がかかる。風邪になったら、まず治してから上へ上るのが常道だ。僕は本隊と分かれてディンボチェに残ることにした。  翌日、みんなから1日遅れて次の村へ向かう。シェル

チベット騒乱の余波

2008年4月19日に日経新聞夕刊に掲載されたものです。  ヒマラヤの玄関口・ルクラからエベレストのベースキャンプに至る約60キロの山道を「エベレスト街道」という。この街道にナムチェという町がある。ネパール側からエベレスト登山を行うことに決めた僕達はここに数日間滞在した。  ナムチェは標高3440㍍の山間にたたずみ、急斜面の谷間に建物が並ぶ。とにかく坂が多い。よくこんなところに町が出来たものだと感心する。「シェルパ(ヒマラヤの現地ガイド)の里」として知られるが、チベットと

登る為に来ているのだから登る

先週、僕らのチョモランマ遠征は大きな決断をすることになった。それは当初予定していた中国・チベット側からのルートをネパール側へ変更することであった。僕達の日本出発と同時に勃発したチベット自治区での騒乱の影響で、予定していた4月5日のチベットの入域がかなわなかったからだ。 今回のルート変更に関して、チーム内で様々な意見交換があった。ベテラン登山家である村口さんとは、山のルートのこだわり方について延々と話し合った。それはクライマーとして<ルート>は重要な意味を持つからだ。

歩く楽しさ

3月下旬、チョモランマ登山のトレーニングとして、ネパールのエベレスト街道でトレッキングを行った。10日間ほど海抜3000㍍以上の高所でトレッキングを続け最高到達目標は5000㍍だった。一日6時間以上歩くため、ここで高度順化するとかなり<歩きのエキスパート>になる。 通称「エベレスト街道」と呼ばれるルートは、カトマンズから小さな飛行機でルクラ(2900㍍)へ飛び、そこからエベレストのベースキャンプ(5400㍍)に至る、およそ60㌔㍍の山道だ。ヘリコプター以外の移動手段は歩くし