3(短編小説)
私は常に3を意識して生きている。
小学校から中学校までの出席番号が小学5年生の時を除き、すべて3番だったから、私は心の底で3に縁があると思い込んでいた。
平成3年生まれである、というところも、なんとなく縁を感じている。
5月24日なので、それ以外に生年月日で3の縁があるわけではないのだけど。
高校の頃は、どうだったか覚えていない。
私は高校を2回入学している。
1つ目の高校は生まれ故郷の高校だった。
私はSNSにハマったことが原因で高校で、うまく環境に適応できなかった。
リアルとバーチャルの境目が、よくわからなくなり、被害妄想が強くなって地元の高校をやめてしまった。
2つ目の高校はミッション系の高校だった。
要はキリスト教の高校だったので、私は、その高校で3という数字が、とても神秘的な数字であることを知る。
キリスト教において最も重要な3の概念は、三位一体の教義である。
父なる神、御子であるイエス・キリスト、聖霊が一つの神であるという信仰だ。
これは神の一性と三位性を表現し、父、子、聖霊が三者一体であるとされている。
なるほど、と私は思った。
3は宗教においても重要な数字なのだ。
私は3の縁をまた強く感じる。
2つ目の高校は、ちゃんと卒業できたが、特にいい思い出はできなく、青春というものが黒いものでできていると思ってしまった。
私は、いわゆる子供が嫌いなのかも……子供の無邪気ないじめで私の人生は狂ってしまったように感じる。
薬学部のある大学に入学するも、そこでも私は子供に否定されてしまい、進級のかかった試験の時に筆記用具を隠され、その試験で何もできなかった。
留年した私は文系の学部に転学し、ひとりでいることを選んだ。
そして、私は病気を発症した。
私は精神障害者になる。
いや、元々そうだった。
精神障害があることで周囲に馴染めなかったようだ。
本当に、そうなのだろうか。
私をいじめてきた子供のような大人に偽装している人たちより私が子供であるはずがない、と私は常に感じている。
精神障害がある者は子供として扱われることが多い。
大人になりたかった私は、ずっと子供のままか。
私は、どこか満たされないまま、文系学部の大学を卒業して、社会人になったけど、やっぱり何かが足りない。
満たされない状態が続いていたのだけど、たまたま3の意味をネットで検索したのだが、その内容は。
「数字の3は、その読みがみつであることから、満つ(みつ)や充つ(みつ)と意味を重ね合わせて、満たされる、思いや願いが叶う、充足感などを象徴する縁起の良い数字として考えられている」
そうか。
私の3に対する思いは間違っていなかったのだな。
私は満たされない時に3のことを考えることにした。
それが意味のある思考なのかは、わからないけど、どこか少しだけ心が満たされる感じがした。