心のモヤは一生、晴れない(エッセイ)
心のモヤが晴れることはない。
きっと誰もが、大なり小なり、心に闇を抱えていることだろう。
その大きさも小ささも目で見えるものではないから、人は見える範囲の物差しで、その人の闇の深さを判断し、評価する。
良くも悪くも、人は人であるがゆえに、様々な思いが混ざり合い、絆が生まれたり、絆が生まれなかったりする。
人の感情の磁石は、人によって、くっついたり、離れたりする。
その繰り返しをしているのだ、人間は。
だから、たとえ、その人に受け入れてもらえなかったりしても、ほかにもいい人いるよ! ……みたいな感じなことを言われて、探すのはいいのだけど、自分の目に見える範囲にいない、どこかに存在する理想の人物を求めたとしても、それは、きっと虚しいことだろう。
なんの話だ、これ。
まあ、良くも悪くも、人に求めるレベルが高くなりすぎているよな、という話なのかもしれない。
現代の世の中では、スマホがあれば、ネット環境があれば、どんな人でも簡単に繋がれる。
しかし、それがゆえのリスクというものも当然、存在するのだが、なにがリスクなのかは、正直、あいまいになってきているような気がする。
自分自身は善人である、というように表面上は振る舞っているけど、心の中まで善人である人なんて、そうそういないように思う。
正直、心の中まで自分を評価するならば、クズの範囲に収まるだろう。
どう生きるか、なんて考える暇なんて、ないんだよ。
時間は常に消費され、待ってはくれないのだ。
だから、たとえクズだとしても、表面上は、いい人をよそおい、甘い蜜を吸えるような、関係の構築ができるように、腹黒く、薄汚く、その感情を表に出さない善人のフリをして、ハッピーに生きられたら、それでいいじゃないか、と思う。
大体みんな、そんな感じじゃない?
みんな、それが普通だって、本当はわかっているんじゃない?
私には、そんなふうに思えるね、人間という生き物は。
私は、ひねくれているのかもしれない。
だから、私が今、書いたことが正しいことであるとは断言しないよ。
そういう考えの人もいるんだよ、という程度に思ってくれれば、それでいい。
それ以上でも、それ以下でもない。
たった、それだけの、独りよがりな感情の話。
こうやって、文章を少し書いてみたけど、やっぱり、心のモヤが晴れることはない。
私が、いけないのだろうか。
そんな気分にさせられる。
どうして、罪悪感を抱くのだろうか。
そんなことを思いたくないのに。
やりたくないことなんて、やりたくないのに、どうして、人に強制させる人がいるのだろうか。
まるで、宗教の勧誘みたいなものじゃないか。
本当に嫌になる。
嫌だなあ。
早く、どこかにいきたいな。
そう思う。