右脳的に生きる
年末に四柱推命鑑定を受けた。
会社の元同期の女の子が独立して「コーチング×四柱推命」をやっているというので、一度受けてみたかった、というのもあったし。
今自分が人生の中で大きな転換期を迎えている気がしたので、これから自分の人生はどう変わっていくのか、何に気を付ければよいのか、等、ちょっと聞いてみたいという気持ちが高まっていたのだ。
もともと、占いなんて信じるタイプではない。
が、同じく今年四柱推命を受けた妻いわく、四柱推命は占いではなく、統計学なので、その人がどういう傾向があるのか当たる可能性はあるとのこと。
とはいえ、誕生年月日(+わかれば誕生時間)だけで人の性格や人生がわかるなんて、ちょっと胡散臭いな、という気持ちはぬぐえない。
まぁでも、悪いものは信じなければいいし、良いところだけ信じたっていいいじゃないか、あくまで参考情報だ、という気持ちで受けてみた。
言われたのは。
「あなたは行動力7割、自立心3割の人。なので、とにかく自分がわくわくする方へ、動いて動いて動きまくれば人生が開ける人。逆に何か止まってしまって、思考のループに入ると、自分なんて価値がないとか、悪い方向に考えが行ってしまう人。
あとは、しし座の星が出ているので、注目されたい人。自分に注目してほしい、注目されると満たされるのだ、ということを認識したうえで、行動すると良い。」
ということ。
シンプルに「右脳的に生きろ」ということだな、と思った。
最近読んで感銘を受けた本「大きなシステムと小さなファンタジー」でも、著者の影山知明さんが、カフェ「クルミドコーヒー」の2店目として、「胡桃堂喫茶店」を作るときに、井川さんというメンター?のような方から言われたのが「影山さんは何の食べ物が好き?」「胡桃とか●●とか・・・」「なんかリスみたいだね(笑)そうしたら、リスの家みたいなコンセプトにしたら?新しい喫茶店は」
通常、「この土地ならどういう顧客層がいて、どういう競合がいて、だからこういうコンセプトならうける、儲かる」みたいなことをコンサルティング界ではするけど。
井川さんは、自分がどういう人間か、を突き詰めて考え、それをお店という形で表現し、それを社会に開くことで、共感してくれる人が集まってくる、というアドバイスをしたらしい。
この「リスの家みたいなカフェ」というテーマも左脳というより右脳寄りな発想だと思う。
右脳って何か直感的で、感覚的で、それを人と共有したりするのは難しい。
なんとなく~したい、~したくない、
なんとなくスキ、キライ。(理由はないけど)
だから、人は人とつながるため、あるいは、人を動かすために、左脳を使って、論理的に言葉で説明しようとする。
でもアートや音楽の世界がそうであるように、本来はそれを解説してしまっては無粋で、一人一人が感じとるもの。それはその対象物とその人の間にだけ発生する思いや共感みたいなものが、きっと大切で。その数ある共感の形をどれだけ生むかが、本来的なそのモノやサービスの価値なのかもしれない、と思う。
また別の観点で、右脳的に生きるということを考えると…
いまこの資本主義社会で、生きづらさを感じる人たちが多くいると思うのだけど。社会で働いていると、何かと左脳的に生きることが求められていて。
例えば社内提案する際は、上述したように「社会背景や最近の流行があり、競合状況があり、自社の優位性の分析があり、コンセプトがあり、戦術があり…」と左脳的に論理的に説明をすることが求められる。決して(一部の人の例外を除き)「なんか良いと思うんですよね。カッコよくないですか?」的な感じで社内決裁がとれるなんてことはほぼない。ひょっとすると、かっこいいと思うからこそ、後付けでそういう左脳的要素をくっつけて提案することはあるのかもしれないが。でもそもそも提案する本人も大してワクワクしてないのに、売り上げ目標達成のために提案するということも多々あるように思う。
社内提案だけじゃない。
社会では、「男だから~あるべきだ」「女だから~あるべきだ」というのが、いまだにある気がするし。「親だから~あるべきだ」「結婚しているのだから、~あるべきだ」「もう40なんだから~あるべきだ」みたいな観念があるように思う。(同質化社会の日本が特にそうなのかな?)
何か左脳的に、ロジカルに、社会通念に当てはめようとするものがあって、そこから外れるものは排除する空気があって。
「なんかこれ面白くない?」とか「これカッコよくない?」っていう感覚的に生きていくことが難しいし、あまりそういう人にまわりで出会ったことがない。
でも、毎日満員電車に揺られて通勤して、自分がやりたいと思ってない仕事や人間関係に悩まされ、プライベートの時間もあまりなく、いつしか、社会の仕組みやオペレーションをまわす日々。そんなサラリーマンを見ていると(自分への自戒も含めて)「自分の人生を生きろよ!もっと右脳的に感覚的に!」っておもったりする。
もちろん、やらなきゃいけなこともあるだろう。親なら子育てに時間はとられるし、上司ならマネジメントやその上の上長からの下請け仕事もあるだろう。でも、それでも、「私は~したい」という意思をもって生きられるかどうか、というのは、実は環境のせいではなく、「どう生きたいか」という自主的な判断の要素も大いに含まれているのだと思う。
同じ仕事でも、どういう意識でやるかで、仕事への意欲やパフォーマンスも変わってくるし。そもそも仕事を選ぶ際にも、お金や条件面だけではなく、「どう生きたいか」を軸に、自分で選択することが出来れば、その環境への自分のコミットメントも違ってくる気がする。
なんでこんな抽象的な話を熱く長く語っているのかといえば・・・
自分は社会に出て19年間、傍から見れば大企業勤務で、妻も子供もいて、家も持っていて、幸せそうな人生に見えるのに、どこかずっと満たされなくて。なんなら定期的に「抑うつ状態」のように、やる気レスで人と会いたくなくなる時期が長期間(数か月)出てくるので、それを改善しようと、生活習慣を変えたり、ダイエットしてみたり、病院に通ってみたりしたけど。
今思うのは。
実はその抑うつ状態っぽくなる一番の原因は「自分の人生を生きていないこと」なのではないか、と思ったのだ。
昔から親世代(現在70代)の常識だった「いい学校入っていい会社入れば幸せ」という価値観で学生時代は育てられ、実際に高学歴で、知名度の高い会社に入ったけど。全然幸せじゃなくて。
今度は社内で出会った妻と結婚し、彼女が求める「家庭と会社の両立=50:50の家事育児」を実現するため、会社で仕事の調整をし、家事育児をなんとか数年かけて50:50の状態までもっていった。
加えて、妻がよく言っている「会社と家庭に加えて、社会での貢献をすることが大事」という理念に共感し、今年からPTA会長をやってみた。
が、5月ころから鬱っぽくなった。
家事育児50:50もPTAも、自分で選択した暮らし方や生き方ではあったけど。それでも、社内には「家事育児を完全に50:50でしている男性」なんてほぼいなくて、むしろ仕事を定時で切り上げたり、保育園お迎えの日は16時に帰るのを(一部女性は除いて)冷たい目で見られたり(あるいは見られたような感じがして肩身が狭いと自分で勝手に思ったり)。
誰もやりたがらないPTA会長を、自ら挙手して引き受けて、「誰もやりたがらないPTA活動」をどう再構築するか、一人過去のPTA活動について勉強し、考え、同じPTA仲間に話したけど、あまり同じ温度感で共感されない、というか「へ~すごいね、意識高いね、頑張って」的な感じで辞めていかれたり、とか。
そういう孤独感とも戦いながら、「PTAとか家事育児って、もちろん(社会的に)やったほうが良いことではあるけど、『自分がやりたいこと』だったっけ?」とふと考えた。(その奥にある社会課題まで勝手に担おうとすると重すぎる…苦笑)
何か妻の思う理想や社会課題の解決を、自分の目標と思い込んで、それを達成しようと、(自分の意思とは関係なく)頑張ってなかったか?そしてその状態を達成できない状況や自分のスキルの低さ、孤独感に勝手に落ち込んでなかったか?
そもそも周りを見渡しても、仕事でも認められ、家庭でも家事育児をばっちりやり、社会でもPTAやら自治会までがっつりやってる人なんて見たことない。(スーパーマンかよ!苦笑)
だから、できなくて当たり前だし、やる気なくなるときもあって当たり前。一人では続けられなくて当たり前だし、休みたくなったら休んでも良いし、やめたっていい。別にPTAなんて誰も期待してない。苦笑
だから、自分は自分がやりたいと思ったことを、右脳的に判断し、やりたいと思ったときに、やりたいと思った人と、思い立ったように「やろうぜ!」と行動力でやってみればいいんだ。
自分はこれから「やりたいこと」を軸に生きていくぞ!そう思ったときから。何か精神が解放されたというか。世の中や周りの人の「~すべき」という概念から、自由になれた気がして。
19年以上付き合ってきた定期的にくる(長期間の)抑うつ状態ともさよなら出来る気がしたのだ。(今は状態が良いだけかもしれないので、1年間様子みなきゃだけど)
でも、今まで生きてきた40年も決して無駄ではなくて。
いい学校入っていい会社入っているから、「お~すごいね」と社会やまわりから一目置かれるきっかけにはなる。(実際にはそこから何をやるかが大事だし、期待値が無駄に高くなるので、あまり社会的ステータスで褒められるのは好きではないが)
また、いい会社入ったからこそ、あまり会社が潰れる心配もなく、安定した給与をもらえ、「好きなこと」にシフトしていきやすい環境はある。
また妻から指導?のあった「会社+家庭+社会」の3本柱をもった生き方は、間違いなく、自分のアイデンティティーというか希少性につながるし、今後40以降「健康、お金、コミュニティー」が大切だなと思っていた自分にとって、コミュニティーを作るのにその体験が生きてくるのは間違いない。
だけど。
40年間自分の人生を意識的に生きてこなかった、という意味での精神的犠牲はとても大きかったしツラかった。
だから。
子どもたちにはそんな思いを絶対してほしくないのだ。
自分の人生は自分のもの。自分で切り開いていくもの。
先生や親、まわりの大人の期待なんて一切無視して、自分の感覚にしたがって生きてよいのだということ。
そして困ったらまわりに助けを求めても良いのだということ(社会は子育てにしても仕事にしても「自分のことは自分で」的な冷たい風潮が強いけど)
そういうことを子供たち世代にちゃんと伝えていきたい。
もちろん、自分の感覚的なものに頼って生きていると、お金を稼げない生活になったり、周りの人から浮いてしまって馴染めなかったり、色んな弊害もあるだろう。
でも。それでも。
自分の人生は自分のもの。自分で切り開き、自分のやりたいことをして。それが誰かの為になることであれば、きっと仲間も出てくるし、お金にもつながってくるのだろうと思う。
AI時代でどんな仕事が無くなり、どんな仕事が今後発生してくるのか分からない。でも子供に今後の世界を予想して、プログラミングを習わせたいとは思わない。
むしろ、自分のこと(主に暮らしのこと)は自分でしつつ、社会で暮らすために、(周りを観察しながら)自分が出来ることを見つけ、そして自分がやりたいことを探し、人と調和しながら、自分の自己実現をする、そういう人生の選択を自分で切り開いていくための、考え方を伝えたり。
あるいは、自分のやりたいことを見つけるために、様々な体験をさせたり、様々な(人生を楽しく生きている)大人と会って話をさせたり、あるいは一緒によりそって考えたり。
そうやって生きるヒントは与えたうえで、あとは子供たちが何になるのか、どんな人生を選択するのかはわからないけど、それを見るのが楽しみだし。自分はたぶん「コミュニティー×教育」の分野でそういうことをずっと人生をかけて子供たちに伝えていきたいのだと思う。
とはいえ、「今の仕事をどう自分がわくわくするものに変換するのか(または転職するのか)」だったり、自分のやりたい「コミュニティデザイン」や「コミュニティーデザイン×教育」の分野をどうマネタイズするのか、は色々考えなければならないので、そこは色んな人と連携しながら、一つ一つ形にしていきたい。
とにかく、40以降は右脳的に生きるのだ、そんなことを決意した、2024年年末。来年はどんな年になるのかな~。楽しみだ。