舞踏会中毒と葱
『愛じゃないならこれは何』という斜線堂有紀さんの短編集の中の「きみの長靴でいいです」の感想になります。
舞踏会中毒というのは作中からの持ってきた言葉なのですが、相手との関係性に夢とかロマンとかを乗せすぎるというような意味になるかと思います。この物語においてはあるブランドの天才デザイナーの女性と有名カメラマンの男性が、ブランドが世間に見出されて成功していくきらきらしたシンデレラストーリーの中で、お互いに王子と姫に相応しい振る舞いを続けます。主人公の天才デザイナーはカメラマンと結婚する気満々でしたが、カメラマンは別の女性と結婚します。特注のガラスの靴まで貰った主人公からすれば、きらきらした共同幻想を延々とするばかりで、その相手と俗世を共にする関係になれないという話です。
主人公は演じた姿ではない自分自身を見せつけますが、困り失望するような反応しか得られないという遣る瀬ない結果に終わります。
芥川龍之介の短編に「葱」というのがあります。こちらも芸術家の青年にロマンチックを感じたカッフェの女給の話です。葱はこの際、女給の心を夢のようなデートから俗世に引き戻す役割を果たします。女給が葱を買う、日常の姿を見せた時の芸術家の反応も、当世風には、いわゆる引き気味というやつでした。
芸術家はカッフェで静々と澄まして給仕する女給と気取った自分という関係性が気に入っていただけで、葱を買う俗な人と歩きたいわけでは無かったのでしょう。
では果たして我々は、その関係性が好きなのか、その人が好きなのか。「きみの長靴でいいです」に戻ると、ロマンチシズムに浸るにはこの人、俗世を渡るにはこの人、というような、謂わゆる適材適所ということなのでしょうか。そうするとこの関係性についてはこの人が好き、という評価を行っているように思われます。
であれば我々は収まりたいポジションに似合う人格を提案する必要があります。
しかしながら、果たして付き合う事と結婚することは同じなのかという所が問題です。主人公とカメラマンが、少なくとも主人公の主観では付き合っていたのですから、まさにそのミスマッチがこの物語の悲劇を作り出しています。
恋のよろこびは愛のきびしさに繋がっていて、我々はそのどちらについてもを満足させる必要があるのだとするなら、つまりガラスの靴も長靴も葱も渡せないとどうにもならんということでしょう。
全くもってできる気がしません。