ゆりかごのうた
祐也くん
母はとてもやさしい人でした。
身体が弱かった私は、幼稚園の年少のころから小学生にあがってもまだ、夜中に喘息の発作を起こすことが多かったのです。その度に、私は町医者のお世話になりました。
大人になってから思えば、生活ができるだけの質素な設備しかない築30年の市営住宅は、私の身体にとって少々厳しい生活環境だったように思えます。
また喘息の発作が起こりました。
母は、真夜中だというのに喘鳴に苦しむ私を背負い、一駅ほどの距離を走りました。
「エリちゃん、大丈夫、大丈夫だからね」
その言葉に、私はどれだけ勇気づけられたことでしょう。
「先生、娘を、娘をお願いします」
呼び鈴を鳴らしながら門を叩く母が、そのときどんな気持ちだったのかを想像すると、いまでも苦しい気持ちになってしまいます。
ところどころ外灯が明滅する暗い夜道。砂利の混ざった道路がゆっくりとしたリズムを刻みます。発作が治まった私を背に、母は小さく小さく呟くような声で歌ってくれました。
ゆりかごの うたを
カナリヤが うたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
私は母の背中の上で揺られながら眠ってしまい、いつだってその唄を最後まで聴くことができないのです。
小学生になって初めての夏休み。
私は初めてできた男の子のお友だちと遊んでいました。祐也くんの漕ぐ自転車の荷台に乗せてもらい舗装前の道路を走ったのです。そこは、郊外と市街地を繋げる新しい幹線道路の予定地でした。まだ、荒地の真ん中に大粒の砕石を盛っただけの”ニワカ”状態で、自動車はおろか人も歩いてはいません。ただ、砕いただけの石はどれも剣が立っていたのを覚えています。
お兄ちゃんの真似をして、初めて二人乗りにチャレンジした祐也くんに悪気はありませんでした。まだ不慣れだった祐也くんの自転車は、急にガタガタと不安定になり、腕が左右に揺れているのがわかります。格好をつけてサドルの下だけを掴んでいた私はバランスを崩してしまい荷台から落下しました。それは両膝にいくつもの砕石が刺さる大事故です。私は横たわりながら砂まじりの手でギュッと膝を押さえました。流れ出す血は全然止まらずドクンドクンと脈打つ感覚が手のひらへ伝わってきて、私はどんどんと怖くなっていきました。
ケガをした場所が家から近かったこともあり、祐也くんはすぐに母を呼んできてくれました。
血相を変えた母の顔をいまでも思い出します。それは見たことがないような恐ろしい顔つきでした。
血だらけの私を背負うと母は病院へ走り出しました。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
祐也くんの声が遠く小さくなっていきます。
「エリちゃん、大丈夫、大丈夫だからね」
貧血のせいでだんだんと暗くなり何も見えなくなってしまいました。でも、私の耳はおぼろげにその言葉とメロディの響きを感じとりました。母は息を切らせながら小さな声であの唄を歌っていたのです。そのときに不思議と安心したことを覚えています。
私は初めての夏休みの半分以上を、傷口の痛みで満足に歩くことが出来ませんでした。最悪な夏休みを過ごしたのです。ただ、出張が多くあまり家にいない父をよそに母と私は友だちのように遊びました。それだけが、そのときの唯一の救いだったのでした。
おじいちゃんとお兄ちゃん
小学五年生になった私は、初めて家族と離れて過ごす泊まりの旅行へ行くことになりました。林間学校です。
夏休みに家族みんなで茅葺き(かやぶき)屋根の家へ泊りに行くことは、毎年の恒例行事でした。おじいちゃんの家です。
農家を営んでいる母の実家はとても広く、そこにはおじいちゃんと兄夫婦、そしてその子どもたちが住んでいました。私たち家族はいつも歓迎されました。そして、私だけが可愛がられたのです。
「きっと私には不思議な魅力があるんだ」
と、そのころはずっと思っていたのですが、何のことはない親戚の中で私だけが女の子だったのです。自意識過剰です。みんなに可愛がられたというのは、ただの思い違いに過ぎないことでしょう。
おじいちゃんは私が来ることをたいそう楽しみにしていて、小さいころはよくおじいちゃんと一緒にお風呂へ入ったのでした。
おじいちゃんが身体を洗ってくれるのですが、家で採れた糸瓜(ヘチマ)を使うので小さいころは痛くて大変でした。ただ、そのうちにそれをくすぐったく感じるようになったのは誰にも教えません。おじいちゃんとの秘密だからです。
歳が五つも離れたお兄ちゃんたちとは押し入れの中に籠って遊ぶことが恒例になっていて、それなりの楽しさがありました。そんな冒険みたいな遊びができるのはおじいちゃんの家だけなのです。
押し入れの引き戸を閉めるとその狭い空間はとたんに薄暗くなりました。夏の暑さと湿気でしょう。何か饐えたような、それと一緒にベタベタと触れ合う素肌と汗の匂いが合わさってとても臭かった記憶があります。お兄ちゃんたちと私は、どこか謎めいた雰囲気が漂う“秘密基地“に隠れてアイスキャンディーをペロペロと舐めました。
ただ、そんなことよりも庭の畑で取れる新鮮な野菜の美味しさが飛び抜けていたのです。食べても食べてもなくならない西瓜には、毎度面喰ってしまいます。いくらでもおじいちゃんが私にくれるのです。
食べ合わせが悪いなんてことを、小学生の私が知る由もないのです。玉蜀黍(とうもろこし)と西瓜を交互に食べる私をみかけるたびに母は、
「エリちゃん、食べ過ぎちゃだめよ」
と言うのでした。
でも、そこはまだまだ食欲が勝ってしまう私。ついつい食べ過ぎてお腹が痛くなってしまうのです。
母は、そんな私にいつもの頓服を飲ませました。なぜだかこのお薬が良く効くのです。そう、母はまた薬剤師の仕事を始めたのでした。私の喘息の症状がようやく落ち着いてきたのを見計らって、学校に行っている間だけの短い時間働くことになったのです。
この年も私はやってしまいました。
お腹を抱え布団で丸まっている私を、母はトントンとリズムを取りながらまたあの唄を歌ったのでした。
ゆりかごの うたを
カナリヤが うたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
「お母さん、私、もう子どもじゃないよ」
そう言ってはみたものの、痛みがひいてきたことや旅行の疲れもあって、すっかり眠くなってしまうのです。それは毎度のことでした。母のこの唄にはなにか秘密でもあるのでしょうか。
今年は、この恒例行事よりも楽しそうな林間学校があるのです。
興奮を抑えられない私は、台所の片付けをしている母を呼んでは二泊三日で周るルートの説明を何度もしました。私が同じ話を幾度となく繰り返しても母は笑ってくれます。まるで初めて聞いたかのように驚いてくれるのです。
そのころには、祐也くんのことをとうに忘れてしまっていたけれど(あの夏の間にお父さんの都合で引っ越してしまったと母から聞き、私は少し泣いた)新しく出来たお友だちと行く林間学校は、私のなかでとてもとても楽しみになっていました。
新しくできたお友だちの女の子とは家で一緒に遊ぶことが多く、(母の作る洋菓子がとても美味しくて評判だったのです)そんなことから、比較的おしとやかなお友だちが私の周りに集まっていきました。
林間学校は想像通り楽しい思い出となりました。
初日、母の作ったお弁当の出来は素晴らしく、私はお友だちみんなに自慢をしました。お友だちは口々に、
「エリちゃんのお母さんは最高ね」
と褒めてくれます。私はそれがとてもうれしくて、
「そんなことないよ」
と、ついつい笑みがこぼれてしまいます。
川遊びの時間は少しだけ残念でした。
喘息という持病があって、私は学校のプールの授業でも水着になったことがないのです。お友だちが川に入ってはしゃいでいる姿を、私は川っぺりでみることしかできないのでした。ただ、男子が少し厭らしい目で女子の水着姿をみていることに気がつきました。男は馬鹿なのです。
バスで立ち寄る見学ルートは、母から教えてもらった豆知識が大活躍しました。お土産も、その土地にしかない特産品をあらかじめチェックしてあったので(これも母が教えてくれたのです)私は鼻高々なのでした。
途中、私が財布を落としてしまうハプニングがあったけれど、とても親切な方が届けて下さったおかげで(その女性の方は名乗らずに去ってしまったためお礼ができないのです)助かりました。
そのことを母に話すと、
「大変だったわね。でもよかった。楽しく過ごせたのね」
と喜んでいました。母が喜ぶ顔をみることで私も気分がよくなるのです。
林間学校から帰ってきたのですが、今年はおじいちゃんの家には行きません。
何故なら私がひどくお腹を壊してしまった昨年の夏に、そのおじいちゃんが亡くなってしまったからです。お酒をたらふく飲んだ後にお風呂に入り、そのまま溺死してしまいました。
すぐにお通夜があり、お葬式が行われました。
その日、私は大好きな玉蜀黍や西瓜をひと口も食べませんでした。高校生になって少し不良っぽくなったお兄ちゃんたちも静かでした。
「また、押入れ行こうぜ」
という誘いを、この年私が断ってしまったからです。そのときお兄ちゃんたちからは男の匂いがしていました。私には、その目つきでわかります。男は馬鹿なのです。いつの日からか、おじいちゃんもそうでした。
私はほとほと困っていたので正直少しだけホッとしたことを覚えています。
母は、火葬場の煙突から揺蕩う煙を遠くみつめながら、あの唄を小さな声で口ずさんでいました。
塾の先生
「最近、なんかずっと誰かに見られてるような気がするんだよね」
と洋子。
中学生になり高校受験を見据えて学習塾に通い始めた私は、別の中学に通う洋子と友だちになりました。
洋子は、いままで私の周りにいた友だちとは全く違うタイプの性格を持った女の子でした。ガサツなところはあるけれど、物怖じしない積極的な性格が私とは正反対で、我ながら面白い組み合わせだなとそのとき思ったのです。
「なにそれ、洋子は可愛いからストーカーじゃね?やばいね」
「えー真面目に答えてよ」
「噓だって。それ受験のプレッシャーだよ。テスト三昧じゃない、私たち」
私は適当に返答をして、早々に話を切り上げました。
洋子もそうだったけれど、この私にも言い寄ってくる男子は多かったのです。でも、そんな男どもはこちらから願い下げでした。そういう厭らしい視線に私はとても敏感だったのです。
ただそのときの私は、それとは別の何かを感じてしまいました。心の片隅でずっと気にしないようにしてきた疑問に気づいてしまい、どうすることもできない気持ちに苛まれたのです。私は誰かに見張られている……そう思い始めた私はゾクゾクとした寒気に襲われ、その後の勉強などてんで上の空になりました。
その夜、私は夢をみました。
駅からの帰り道、ずっと誰かに後を付けられているのです。
足音が少しずつ近づいてきます。私は早歩きになって、最後は走って自宅に飛びこむのです。
私は初めて母に噓をつきました。
塾の先生と、洋子と三人で花火大会を観に行くのです。母には塾の模試があって帰りが少し遅れるからお迎えは無しでいいと伝えました。
「洋子とバスで帰るから、バス停までは迎えにきて」
と、少しだけ母に気を遣ったのはここだけの話です。
いままで母からは、花火大会はおろか夜祭りも盆踊り大会も禁止されていたのです。いままでのお友だちはそういったものにあまり興味がなかったので何事もなかったのですが、何しろ洋子は行動派です。私もそんな洋子が大好きでした。
塾の先生に、
「ねぇ先生、私たち花火大会に行きたいです。ちょっとだけ、ちょっとだけよくないですか」
と洋子が甘い声をだすと、先生は
「しょうがないなぁ。ちょっとだけだぞ……それじゃぁ車で行こう」
と簡単に誘いにのりました。大学生の男など私たちにとっては“ちょろい“ものなのです。
初めて生で観覧する花火大会は、テレビで観るのとは大違いでした。
下腹部にグンと押しつけるドーンという爆発音や、まだ少し明るさの残る夜空に次々と尾をひいては消えてゆく火球の美しさなど、荒川の土手に広がった大パノラマに私はひどく興奮しました。横に座っている洋子は慣れたもので、先生と親しげに何かを話しています。私は、
「デキているのかも」
と、ちょっとだけ思い、別の興奮が身体の芯を熱くしました。
「私、ちょっとタコ焼き買ってくるね。先生お財布だして」
と、先生のジーパンのポケットをまさぐりました。
「お、おい、よせよ」
という先生をよそに、ジーパンの固くなった部分をそっとなぞって財布をとりだした私は、
「じゃね」
と言い残し、洋子に目配せすると屋台に向かって走り出しました。
洋子に気を遣ったというのは建前で、本当は自分の身体の変化が少しだけ恥ずかしかったのです。
トイレに駆け込み用を済ませると、そこには先生が立っていました。
「ちょっと」
と、腕をぐいっと掴まれてトイレ裏の暗がりに連れていかれると、先生は突然私にキスをしてきました。
「んっ」
と唇をつぐんでも先生は無理やり舌を押しつけて舐めまわします。私は、あの押入れで過ごした時間をぼんやりと思い出しました。ひとしきり私を味わった先生は、器用に私のTシャツをたくしあげ、汗でびちょびちょの手をそこに潜り込ませると胸を触ってきました。男はなんて馬鹿なのでしょう。私は、こわばらせた身体を少しだけ緩めてあげました。実はほんのちょっとだけその世界を期待していたのです。それでも、硬くなった蕾の先端を先生に知られてしまうのがどうにも恥ずかしくなり、ブラを引きあげるすんでのところで身体をねじりました。
そのとき、
ゆりかごの うたを
カナリヤが うたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
あの唄が聴こえたような気がしたのです。それは先生も同じだったようで、何かの気配を感じた私たちはサッと離れました。
見られているんじゃない。何者かに見張られているのです。
私は確信をしました。でも、そのことを先生には言わずに、
「内緒にしてあげる」
と乱暴に言い放つと、私はあらためてタコ焼きを買いに走りました。
初めての屋台で勝手がわからない私は、タコ焼きひとつ買うのに随分と時間がかかってしまいました。世間知らずなのは本当に困ります。
すでに花火大会は佳境に入っていました。スターマインが激しい爆音とともに次々と炸裂して、夜空をこれ見よがしに彩っているのです。
私がタコ焼きを手に戻ると、
「遅いよ、エリったら」
と、ぷくりと頬を膨らませた洋子に言われました。いつだって洋子は可愛いのです。でもそのときは、少し上気した顔が女の顔だったことをハッキリと覚えています。
「ごめんごめん」
と私は謝り、三人で仲良くタコ焼きを食べました。そう、男っていうのは本当に下等な生きものなのです。
「家まで送るよ」
と言ってくれた先生を放っておき、私は
「一生のお願い」
と懇願して洋子と二人、バスで帰りました。途中の停留所で降りてしまう洋子は、本当を言うと一緒に帰らず先生の車でお楽しみの続きをさせてあげたいのです。でも今日のところは勘弁です。なぜなら、どこで見張られているかわからないからです。私は少しだけ緊張をしていました。
母は約束どおりバス停まで迎えに来てくれました。
「エリちゃん、どうだった」
と母に訊かれ、
「まあまあ良かったけど、ところどころ中途半端に終わったかな」
と言いました。
母は、ご機嫌なのかどうなのかわからなかったけれど、またあの唄を口ずさんでいました。私は黙ってその歌を聴き流しました。
花火大会が終わり、お盆を挟んだあと二週間ぶりに塾へ行くと、新しい女子大生の先生がいました。なんでも急に辞めることになった先生がいるとか。あの噂は本当だったようです。でも、私は先生なんて誰でもよかったのです。親戚のお兄ちゃんみたく、高校を中退した挙句に働くところがないまま遠洋漁業の大型船に乗せられてそのまま戻ってこない……そんな人生にならないよう猛勉強をしているのですから。
明晰夢
最近、頻繁に”あの夢”をみるようになりました。
有名な女子高に合格した私は、共学の高校に通うことになった洋子と疎遠になってしまいました。夏休みの後、進学クラスとチャレンジクラスに分かれてしまったことも原因のひとつです。
先生が変わってから洋子はやる気をなくしてしまい、ズルズルと成績が下がってしまいました。そうとうショックだったのでしょう。
突然辞めることになった先生は、携帯はおろか、住んでいたアパートもそのままにしていなくなってしまいました。実家にも戻っていないそうで、どうやっても連絡がつかないのだとか。給料すら取りに来ないので塾としてはもうお手上げだと別の先生が教えてくれました。それは仕方のないことでしょう。生徒の親に手を出したという噂はあっという間に広がり、知らない人はいませんでした。
そんなことにお構いなしの私は、新しく採用された加奈子先生に一目惚れをしました。先生の放つ上品な魅力(そのときの私にとって二十二歳の女子大生はとっても大人だったのです)と、ほのかな色気を内に秘めた美しい姿を目標にすることでみるみるうちに成績が上がり、ついには先生が通う大学の付属高校に合格できたのだから、人生なにがあるかわからないものだとしみじみ感じています。
私は、大人の恋人が欲しいと思いました。
女子高なので、学校内で男の人と知り合うことがないのです。でも、たとえ同じ学年の男がいたとしてもまっぴらゴメンでしょう。だって全然子どもなのですから。
教職員に目を向けてもピンとくる大人はいませんでした。
学校側もそれなりの対策なのでしょう。女性の職員が多く、教鞭をとる数人の男性職員も定年が近い禿げあがった容姿であまり魅力を感じません。私立だけあって先生の監視システムも万全であり、生徒に悪さなどをする職員などきっといないのでしょう。だから出会いなんて皆無なのです。
私は塾に通っていたころ、加奈子先生の彼氏をみたことがあります。
なんでもスポーツマンだった彼は営業の仕事をしているらしく、厚い胸板を包みこむ上品なスーツの着こなしが完璧でした。そんな彼氏をみつめる加奈子先生のまなざしは完全に女のそれなのですが、そのときに香るほのかな色気がたまらなく可愛かったのです。
私には”経験”が必要なことを知りました。
私だって自分を慰める術は知っています。人には言えない恥ずかしいことだって、ネットを使えばなんでもわかるのですから。
でも、そんなことを繰り返しても私の身体は捨ててある棒っきれのようで全然魅力的ではないのです。男を知っている身体。それは弾力があって柔らかくて、折れそうなほどの華奢なウエストと程よく丸みを帯びた……あぁ、そんな加奈子先生のような大人の女に早くなりたいと、私は気が狂うほどに悩みました。いつだって骨ばった自分の身体が嫌になってしまうのです。
体育の授業で着替えるとき、お友だちが私の胸を触ったり、お尻をさわったりします。その度にキャーキャーと騒いで、
「エリの胸って案外大きいよね」
とか
「エリみたいなキュッと上がったお尻になりたい」
とか、お友だちに言われます。
その度に、私はただの棒っきれなのに……と、心のなかで哀しくなりました。
私は、どうしても”経験”が欲しくなってしまいました。
でも、その経験を積むために私にはやらなくてはならないことがありました。
そう、“見張り“を始末しなければ、その自由を勝ち取れないのです。
あるときから私は確信をしていました。いままでずっと母に見張られてきた人生なのです。私に近づく男たちをことごとく遠ざけたのは、紛れもない母の存在でした。
もちろんそのおかげで、簡単に安売りしないで済んだことは事実です。
でも、そのときの私は、女になりたい欲を抑えることが大変なストレスになっていたのでした。
私は、何度も何度も夢のなかに母を登場させては殴り殺しました。ピストルだと命中しそうにないし(でも夢なんだからきっと成功するはずだけれど)、刃物で刺し殺すには母と身体の距離が近すぎます。私の夢のなかには都合よく金属バットやゴルフクラブが登場しました。
それを思い切り振り下ろすのです。何度も、何度も。
そうやって血まみれになった母の姿をみて私は今度こそやったと思うのです。
もちろんそんなことを現実世界でやってしまうのは大変な犯罪です。
私は、私の夢のなかで母を否定することで現実世界の母が私を大人として認めてくれるのでは……と考えていました。
でも、母を撲殺して起きた朝、息がまだ荒く整えていない私の目の前に広がる光景は、やさしい母が朝ご飯を作っている様子と、それを美味しく食べている私がいるのです。そうして、
「行ってきまーす」
などと陽気な声を発して私は家を出るのです。
その度に私は極度の罪悪感に襲われます。
もう気が狂う寸前でした。私は、どうにかなってしまうのではないかと薬剤師である母に内緒でロキソニンを何錠もまとめて飲みました。そうすると頭がぼんやりして少しはマシになるのです。
それでも、ちょっと気を許すと”あの夢”が私を脅かしました。
駅からの帰り道、ずっと誰かに後を付けられているのです。
足音が少しずつ近づいてきます。私は早歩きになって、最後は走って自宅に飛びこむのです。
そうして自宅に飛びこみドアを閉める直前に、あの唄が聴こえるのです。
ゆりかごの うたを
カナリヤが うたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
これでは彼氏を探すどころではありません。
私はすっかり夜が怖くなってしまいました。
遭遇
その日、学校からの帰りが遅くなってしまった私は珍しく遅い時間の電車で駅に着きました。バスの最終もなくなってしまったので母に迎えに来てもらおうと、私は鞄からスマホを取りだしました。駅から家まで歩くとおよそ三十分。途中、外灯が無い場所もあるので、帰りが遅くなるときは母が決まって迎えに来てくれるのです。
ただ、その日は何度電話しても繋がらず、仕方なく私は歩いて帰ることにしました。なるべくバス通りを歩いていれば、そんなに怖い道ではないのです。
駅前のマンション群からバス通りを抜けて、住宅街を歩きます。
コンビニエンスストアで温かいミルクティーを買うと、それを飲みながら私は歌を口ずさみました。怖かったのではありません。なんとなくそんな気分だったのです。
住宅街を抜けると、しばらく畑が続き暗い夜道になりました。でも、周囲に何もないぶん、こっそり後ろを付けて来る輩などいるわけがないのです。自分の身を隠す場所がないのですから、それは当たり前のことでしょう。
歩きながら、私は昼間の出来事を思い出していました。
今日の昼間、ネットニュースで以前に住んでいた市営住宅の近くで小学生低学年くらいの白骨死体が発見されたという速報が流れたのです。すでに死亡から十年ほど経過しているとみられていて、いまはDNA検査で発見された人の身元を特定している最中だとか。
「前に住んでたところだ……」
と言葉を失い、たちまち血の気が引いた私は倒れそうになりながら保健室へと駆け込みました。知っている地名でこんな大事件が起こるなんて、それはそれはゾッとしたのです。
保健室のベットでゆっくりと目を閉じた私は、凶悪犯を想像して身震いをしました。
次の角を曲がれば家がみえてくる……。
そう安堵したそのとき、私の背筋を貫くほどの戦慄が走りました。
あの気配がするのです。
気がついたときには足音がすぐそばまで近寄っていて、曲がり角で立ち止まった私は身体が硬直して一切の身動きが取れなくなってしまいました。夢のなかとは大違いです。
それでも、最後の勇気を振り絞って走り出した私は持っていた鞄も何もかも投げ捨てて玄関にたどり着き、震える手で鍵をこじ開けると家に飛び込み、ドアを思いっきり締めてすぐさま鍵をかけ直しました。
足音が玄関の前で止まります。
そして何者かは玄関のノブをガチャっと回したのです。
ビクッとした私の心臓は止まりそうでした。そして、何者かに悟られないよう息を静かに飲みこみました。いや、そのときの私はすでに息などずっと止めていたはずです。
鍵を閉めているにも関わらず、何者かはガチャガチャとノブを回しドアを開けようとします。
私は覚悟を決めました。
「これは夢なんだ」
と心に言い聞かせました。それは、玄関の三和土(たたき)に、おあつらえ向きの金属バットが置いてあるのを見つけたからです。現実世界でこんな偶然があるはずないのです。いつの日かこんな場面に遭遇することを想定して先月末に金属バットを玄関のドア横に立てかけたことを、そのときの私はすっかり忘れていました。
「ガチャ」
と、鍵穴から金属音がこちらに伝わり、横になっていた鉄のつまみがゆっくりと縦に回転すると
「カチャ」
と、開錠した音が鳴りました。想像した通りです。これは母が開けたのです。
「これは夢の中」
そう私は自分に言い聞かせ、いつもの夢と同じように母との対決を選びました。呼吸を整えるために静かに息を吸いこみ、そしてゆっくりと吐きました。
そうして金属バットを握りしめ、ギュッと目を瞑むり、ドアが開いたと同時に私はそれを勢いよく振り下ろしたのです。
ぐちゃっという鈍い音が耳の奥で鳴り、そこに骨が砕け散る音と肉が潰れて飛び散る音が混ざり合い、それと同時に蛇口からホースが外れてしまったときのような血しぶきが肉塊からとめどなく吹きあがりました。もちろんこれは夢なのです。
私は目を瞑ったまま何度も何度も金属バットを振り下ろしました。その度に私の手にはところどころ芯のある柔らかい塊の感触が伝わってきます。生温い血のぬるぬるとしたそれは、小学生のころ二人乗りをして転んだときに自分の膝を押さえたときの感覚と似ていました。あのときの、血が脈打ちながら流れていく様といま目の前で起こっている出来事は、どちらが現実でどちらが記憶なのかそのときの私はわからなくなってしまい混乱をしました。
いいえ、それでもこれは夢に違いないのです。
いままで、母のおかげで純粋培養された私は何の魅力もない女に仕上げられました。それも今日でおしまいなのだと、私はようやく気を取り直しました。これからの私は自由に生きられるのです。進路はもちろん、友だちだって付き合う男だって自分で選べるし、そのことを、これからは誰にも邪魔されることがなくなったのです。
そう、私は自分の力で自由を手にしたのでした。
ゆりかごの うたを
カナリヤが うたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ
私は、なぜかあの唄を歌っていました。
何かいけないこと、疚しいことがあるたびにこの唄を歌うことがいつのまにか私のクセになっていたのです。
どす黒い血がおびただしく流れる玄関は、さながらホラー映画です。横たわった肉塊はうつ伏せのままピクリとも動きません。
私はちょっと気持ちが悪くなり、震えながら足でその肉の塊と化した母の身体を蹴り上げました。
ゴロリと仰向けになった塊の、血の色に染まったエプロンも洋服も、紛れもなく母のものでした。そして半分ひしゃげたその顔は
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