映画ノート⑧ 政治映画『シン・ゴジラ』が描いた「対米従属国家 日本」
政治映画『シン・ゴジラ』
1992年の『ゴジラvsモスラ』以来遠ざかっていた「ゴジラ・シリーズ」。『エヴァンゲリオン』の庵野秀明が実写映画化したという事で久しぶりに観に行った『シン・ゴジラ』は、意外なことに怪獣映画の衣を借りた日本では珍しい本格的な政治映画だった。
この映画でのゴジラは、明らかに大津波や福島第一原発のメタファーであり、ストーリーも大震災~原発事故の経過のアナロジー。ラストのゴジラの活動停止も「福一原発」と同様一時的な小康状態であって、「終息には程遠い」という現状認識も示される。
自衛隊の防衛出動や緊急事態法をシミュレートした危険な映画だとする見方も一部から上がっているが、この映画の主題は日本という国のあり方そのものを問うところにある。
対米従属国家日本
官僚たちの口から「属国」「傀儡」などという台詞が飛び出したとき、全く予期していなかっただけに映画館の椅子から転げ落ちるほどの衝撃を受けた。メジャーな商業映画で米国の属国としての日本があからさまに描かれるのは、初めての経験だったからだ。
原発の「安全神話」で長い間洗脳されていたのと同じように、殆どの日本人は、日本国は「独立国家」だと信じて疑いもしない。しかし、その気になって少しでも調べてみれば、サンフランシスコ講和条約締結後70年近く経った現在も日本がまぎれもない対米従属国家であり、真の主権国家ではないという事実を山ほど突きつけられて衝撃を受けると同時に情けなくなるはずだ。
数年前のオスプレイ墜落事故でまたしても露呈した米軍の治外法権、米軍が支配する広大な横田空域、沖縄をはじめ全国に展開する130を超える米軍基地等は、目に見える従属のほんの一端。
また、1957年の最高裁砂川事件判決以来、日米安保条約が憲法よりも事実上上位に立つ所謂「安保法体系」によって支配されているので、日本は法的にも米国に従属しているのが実態。
明治時代、治外法権などの不平等条約改正に血のにじむような努力を重ねた陸奥宗光や小村寿太郎は、今の日本の有様を見て何と思うだろう。
『シン・ゴジラ』における「主権回復」の試み
では、このような「属国日本」がドイツのように本当に独立し、主権を取り戻すにはどうしたらよいのだろう。
『シン・ゴジラ』では、それに対してひとつの方法が示される。
ゴジラの世界への拡散を阻止するため、米国を中心とした多国籍軍は東京への熱核攻撃を計画する。本来であれば、宗主国に逆らえない日本政府は、唯々諾々と決定に従い、早々と首都の移転を決めて東京から逃げ出したことだろう。
しかし、国連の核攻撃決議の前に、米国の傀儡である首相や主要閣僚はゴジラの熱線で死亡してしまう。後にできた新政権は前内閣とは少しばかり違っていた。最初は核攻撃容認論に傾くが、宗主国に切り捨てられた上に首都を核攻撃されるという絶体絶命の危機に直面してやっと目が覚めたのか、新しい日本政府は戦後初めて米国への反抗を企てる。
「ヤシオリ作戦」の時間を稼ぐためにゴジラ情報を取引材料にして、国連常任理事国のフランスと秘密外交を試みる。フランスを味方につけた日本は、期限付きではあるが核攻撃延期を取り付ける。その後、ドイツの助けも借りて作戦は見事成功!
この辺りの交渉過程は尺が足りなかったのか、少しバタバタし過ぎて、残念ながら細部の描写が不足している。政治映画としては最も肝心な部分なのだから、ゴジラ初期対応時の政府のドタバタ劇を多少削ってでも、フランスとの交渉過程と日本の反抗を知った米国の反応をもっとじっくり描いて欲しかった。
「自発的隷従」からの脱却
それでも私がこの作品を高く評価するのは、日本だってその気になればできるじゃないかと思わせる所だ。
日本国民が長い眠りから覚め、70年以上も続いた「自発的隷従」による思考停止状態から脱却すれば、「政府を突き動かし、明日からでもその第一歩として『日米地位協定』改定交渉は開始できるんだよ!」、『シン・ゴジラ』は、そんなメッセージを我々日本国民に投げかけてくれた映画だった。
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