映画ノート⑲ GS映画『小さなスナック』
斎藤耕一がこの作品を監督した頃は、まだ駆け出し時代。1968年から69年にかけて『虹の中のレモン』、『小さなスナック』、『落ち葉とくちづけ』(3作品ともヴィレッジ・シンガーズが出演)と立て続けに3本のGS(グループサウンズ)関連映画を発表している。以前、3本まとめて観る機会があったが、残念ながらいずれもぱっとしない出来栄えの凡作だった。
中でもこの『小さなスナック』は脚本構成がめちゃくちゃで何が主題なのか観ていてさっぱり分からず、訳の分からない暗い「不倫悲恋映画」という印象しか残らなかった。後に岸恵子とGS出身の萩原健一主演で撮った『約束』(1972)や傑作『津軽じょんがら節』(1973)で見せた才能の片鱗も見つけられない内にエンドマーク。
以上のように非常に印象のよくない映画だったが、NOTEの別のシリーズでGSについて色々書いているので今回じっくり見直してみたところ、「なるほど、そういう事だったのね。」と、初見では気付かなかったことがいくつか見つかった。
「起承転結」形式のストーリー
「起」 舞台は石井(毒蝮三太夫)が経営している白い扉の小さなスナック。主人公の昭(藤岡弘) やその仲間たちが常連客として入り浸っている。ある日、昭たちがたむろしているスナックにヒロインの美樹(尾崎奈々)がふらりと現れる。美樹に興味を持った昭は、彼女をデートに誘う。
「承」 草原や遊園地、海岸などでデートを重ねるうちにふたりの仲は急速に深まっていく。昭は「君の事をもっと知りたい。」と言うが、美樹は自分の事は一切語ろうとしない(一応、後の展開への伏線)。美樹が何も答えてくれないので帰宅する彼女の後をつけた昭は、彼女が若くして美容院のオーナーであることを知って驚く。美樹と昭は、スナックの仲間たちの計らいで結婚式のまねごとをする。海岸の波打ち際ででふたりは激しく抱き合うが、迎えが来て美樹を連れ帰ってしまう。
「転」 実家の美容院まで追って行った昭は、美樹の母から美樹が実は2年前に結婚していた事を告げられて激しく落ち込む。その後、美樹はスナックに姿を見せなくなる。美樹が自殺未遂をした事を知って駆け付けた昭は、病室で年の離れた美樹の夫と鉢合わせし、残酷な現実を思い知る。
美樹への思いを断ち切れない昭は病院に電話し、美樹に「僕たちがこれっきり他人同士になっちまうなんて、そんな事間違ってるんだ。」「お願いだよ。僕の所へ帰って来てほしいんだ。」「君は僕のものにならなくちゃいけないんだ!」とかき口説く。美樹は「ありがと。」とだけ答えて、電話機の前で泣きながらくずおれる。
「結」 翌朝、美樹の担当看護師から石井に「あの方はもうそこに行かれないんです。」という電話が。そして、美樹の自殺死体のストップモーション(このシーンだけモノクロで非常に陰惨)。石井は、昭に「彼女、来られないんだってさ。」と伝える。昭は、美樹の死を知らぬまま夜明けの街をさ迷い歩く。
この映画の最も重要な設定は、「謎の美女」として登場する美樹が実は既婚者であると言うことだろう。その結婚の実態も美樹の家の事情で、まだ子どものような美樹が親子ほども年の離れた金持ちの男に差し出されたものと推察される。つまり金のための結婚であり、そこに愛などありはしないのだ。
美樹に「青春時代」がなかったことは、昭とのデート中の「わたし、今までこんな青春を知らないまま終わってしまうと思ってたわ。」という台詞からもうかがい知れよう。昭とのデートやスナックの仲間たちとの交流は、美樹が失った青春時代を取り戻してもう一度人生をやり直そうする無意識の行動だったように思える。
突然人が変わったような美樹の奔放な行動に美容院の雇われ店長である美樹の姉や母親は強い危機感を抱たはずだ。美樹の既婚者としてあるまじき行動が夫に知れて、離婚騒ぎにでもなったら美容院を取り上げられ、明日から生活に窮する事になるからだ。
母親は「もう会わないでほしい。」と昭にくぎを刺す。同時に今後はスナックには行かないように美樹にも圧力をかけたであろう事は想像に難くない。現に美樹はその後、スナックに行かなくなっているのだから。
昭への思いと自分が既婚者と言う足枷の付いた「籠の鳥」である事実との板挟みになった美樹。思い悩んだ末に自殺未遂事件を起こしたものと思われるが、美樹を見舞った昭は優しいいたわりの言葉をかける代わりに、「どうして自殺なんかしようとしたんだ!」「美樹のバカ!」と美樹を責める。
美樹が自殺未遂を起こした原因を深く考えようともせず、彼女の辛い心情を思いやる事もできない昭。この後、昭は見舞いに来た美樹の夫と鉢合わせしてショックを受けることになる。
翌日、直情的で自分を押さえられない昭は美樹に電話をかけ、一方的に自分の思いをぶつける。この昭の思慮を欠いた独りよがりで身勝手な行為が、心身ともに深く傷ついた美樹の心を折ってしまう最後の一撃になるとも知らずに。
「若気の至り」といってしまえばそれまでだが、結果的に板挟みになった美樹を死に追いやることになる昭の浅はかさは罪深い。美樹が自殺した事も知らないまま夜明けの街をぶらつく昭。ある種スタイリッシュな都会の風景描写が続くこのラストは、昭の能天気ぶりを皮肉っているようにも感じられる。
ここまでストーリーに沿って筆者の解釈を書いてきたが、この映画自体の出来は、目一杯拡大解釈して無理やり好意的にレビューすれば多分こういうことを描きたかったのでは?という推量のレベル。以上の内容が映画的「間接表現」として作品の中で過不足なく効果的に表現されていたかと言えば、全くそうはなっていない。必要な心理描写が決定的に不足している上に他にも問題点が多すぎて、とても及第点はつけられない。
例をあげれば、美樹の自殺未遂に至るまでの心理過程が全く描かれずに唐突に結果だけが語られる。担当看護師からの電話が、なぜか美樹の死を伝えないなどの脚本の不自然さ。昭が美樹が既婚者であり、この結婚が「経済的結婚」である事を知らされる深刻なシーンの後、スナックでジュディ・オングのとりとめのない人生論を長々と聞かせられる不可解な演出。何のために入れたのか分からない脈絡のないカットの多用等々。納得しかねるシーンや観ていて稚拙さを感じる箇所が随所に出て来てもう切りがない。
また、尺を稼ぐためか、昭の仲間たちの本筋と関わらないどうでもよいエピソードが途中いくつも挟み込まれていて、非常に散漫な印象を受ける。それぞれのパーツがばらばらなため、肝心の主題が主題としてはっきり収斂して来ないのだ。
薄幸のヒロインが家族のために犠牲になるある種の「運命悲劇」が主題なのか、それとも「青春の残酷さ」なのか、はたまた「相手の立場を考えない恋情はかえって相手を不幸にする」ということなのか、結局、最後まで解釈が定まらなかった。
さて、いろいろとケチをつけてきたが、映画のモチーフとなったパープル・シャドウズの「小さなスナック」自体はB級GS屈指の名曲。リードギター担当の今井久が書いたメロディも秀逸だが、謎の作詞家牧ミエコ(作詞はこの1曲のみ)の歌詞もストーリー性があり、最後に哀しみの余韻を残す構成も見事なものだった。
しかし、映画のほうは結末があまりにも悲惨で、歌詞に描かれているようなロマンチックなラブストーリーを期待して観るとガッカリする。
今となっては貴重な現役当時のパープル・シャドウズの演奏シーンも中途半端で不完全燃焼。結局、唯一の見どころは、パープル・シャドウズをバックに歌うジュディ・オングの「悲しみの十字架」(こちらも知られざる名曲)歌唱シーンだけだった。
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