海外SFドラマの金字塔① 『ミステリーゾーン』 (The Twilight Zone )とロッド・サーリング
1 『ミステリーゾーン』と『アウターリミッツ』
未だに語り継がれる往年のSFドラマシリーズの傑作と言えば『ミステリーゾーン』と『アウターリミッツ』が双璧であることは衆目の一致するところだと思います。
『ミステリーゾーン』が主に30分番組(第4シーズンのみ60分)、『アウターリミッツ』が60分番組という違いはありますが、ハードSFから怪奇SFまでサイエンス・フィクションの多用なジャンルを網羅した一話完結形式のドラマシリーズであったことは共通しています。
両作品とも同じ題名を冠したリメイクTVシリーズや映画、後継番組が何作も作られていて、未だに根強い人気を持ち続けています。
「それを言えば、『スタートレック』のほうがすごいよ。」との突っこみが入りそうですが、一話完結形式でないことと世界観や作品の基本構造がいささか幼稚なので(特に1作目の『宇宙大作戦』)、私はあまり買っていません。
2 『ミステリーゾーン』の脚本
これまで何度も再放映されている『ミステリーゾーン』ですが、『未知の世界』と題して放映された第1シーズンだけは最初の放映後、吹き替えの音声テープが行方不明とかで、その後、ほとんど再放映されませんでした。
幸い、暫く前にアシェット・コレクョンからほぼ全エピソードが発売・完結して、ようやく第1シーズンを観る事が出来るようになりました。
全5シーズンを通して観ると、まず脚本が素晴らしい。
お金をかけて特撮に力を入れなくても、斬新な発想や視点の転換、緻密な伏線とその回収、落ちの工夫(特にどんでん返し)等で、これほどのすごい作品ができるのかと心底驚嘆します。
題材も、宇宙人、宇宙旅行、異星探検、ロボット、タイムトラベル、タイムスリップ、入れ替わり(白人→黒人、米兵→日本兵等)、歴史改変、核戦争、人類滅亡、未来社会、異世界、パラレルワールド、地球侵略、超能力、マッドサイエンティスト、コールドスリープ、変身、生きている人形、縮小人間、蘇り、夢の世界等々、SFのあらゆるジャンルがてんこ盛り。
全156作品ですから、SF以外にも怪奇ものやファンタジー、喜劇なども結構な数にのぼります。
中心となったロッド・サーリングの他に、脚本家としてリチャード・マシスン(代表作『ある日どこかで』)、チャールズ・ボーモント(『夜の旅その他の旅』)、レイ・ブラッドベリ(『華氏451度』)など、短編SFの名手を起用しているのも特筆すべき点です。
3 『ミステリーゾーン』の演出
勿論、脚本がいくら優れていても、それに見合う演出が伴わなければよい作品にはなりません。
演出面でも、撮影方法などの創意工夫、ドラマには付き物の制作費や制作時間の不足を補うための斬新な仕掛け等が随所にこらされており、だからこそ足かけ6年もの長期にわたって、高水準を維持し続けけることが出来たのでしょう。(詳細については、6に書いています。)
演出陣もリチャード・C・サラフィアン(『バニシング・ポイント』)、ドン・シーゲル(『ダーティハリー』)、ジャック・ターナー(『キャット・ピープル』)、ラルフ・ネルソン(『まごころを君に』)、ジョセフ・ニューマン(『宇宙水爆戦』)、クリスチャン・ナイビー(『遊星よりの物体X』)、スチュアート・ローゼンバーグ(『さすらいの航海』)等、映画のほうでも名作を作ってきた名監督たちがきら星のごとく並んでいました。
エピソードの中に、フランス映画の名匠ロベール・アンリコの短編映画『ふくろうの河』(原作アンブローズ・ビアス)まで入っていたのには、びっくりです(日本では未放映)。
4 『ミステリーゾーン』の主題
『ミステリーゾーン』が今でも語り継がれる伝説的ドラマになり得たのは脚本や演出が見事なだけでなく、当時のアメリカのテレビ界では正面から描くことが難しかった人種差別や偏見、貧富の差、強欲資本主義などの社会問題、原爆、反戦、全体主義や独裁の恐怖など、現代社会にも通じる主題を積極的に取り上げていたからです。
社会的メッセージを盛り込んだ風刺劇やなるほどと思わせる教訓話も沢山あり、表現方法だけでなくその内容も大変優れていたのです。
この作品から大きな影響を受けているタモリの『世にも奇妙な物語』が面白いけれど今ひとつ食い足りないのは、『ミステリーゾーン』の隠れた本質とも言うべき社会批判や風刺が『サブリミナル』(高山直也脚本)、『穴』(原作:星新一「おーい、でてこーい」)、『戦争はなかった』(原作:小松左京等)など少数の例外を除き、ほぼ抜け落ちているからではないかと思っています。
5 天才脚本家ロッド・サーリング
脚本、プロデューサー、ナレーション、番組ホストの4役を兼任したのが、ロッド・サーリング。ロッド・サーリングの『ミステリーゾーン』と言っても過言ではないでしょう。
ロッド・サーリングは『ミステリーゾーン』を制作する以前は、アメリカの社会問題を取り上げたTVドラマで3年連続エミー賞(テレビ界のアカデミー賞) を受賞するなど、脚本家として有名でした。
それでも、プロデューサーの意向やスポンサーへの忖度をはじめ様々な制約があり、例えば人種問題などは企画の段階でTV局から却下されたり、通っても脚本の大幅な修正を余儀なくされたりと、本人も脚本家として自由な表現が出来ない限界を感じていたようです。
自分の番組を持ちたいと、『ミステリーゾーン』では脚本だけでなくプロデューサー役も兼ねたので、以前よりは思い切った作品作りができるようになりしまた。
SFという形式もアメリカのテレビ・コード(当時存在していた表現上の規制) をごまかすには最適でした。
日本でも戦前の「傾向映画」が当局の検閲を逃れるために、時代劇という形式を借りて社会批判を行ったのと同じです。
全156作品の半数以上という驚異的な数の脚本を書いたロッド・サーリングは、『ミステリーゾーン』でも2回エミー賞を受賞しています。
『ミステリーゾーン』終了後、ロッド・サーリングは有名な映画『猿の惑星』(原作ピェール・ブール)の脚本を書いた後の1970年、『四次元への招待(原題:Night Gallery)』という怪奇幻想オムニバス番組を企画してTVシリーズ化にこぎつけます。
しかし、サーリングの担当は番組ホストと脚本のみで、今回はプロデューサー役を兼ねることが出来ず、そのため、彼が思い描いたような作品を実現することは困難でした。第3シーズンまで作られたもののサーリングがプロデューサーのジャック・レアードと脚本を巡って度々対立するなどゴタゴタ続きで、『ミステリーゾーン』のような成功と名声を得ることはできませんでした。
ただし、怪奇小説愛好家だったジャック・レアードの趣味が色濃く反映してH・P・ラヴクラフト原作・サーリング脚色の「冷気」をはじめ、マンリー・ウェイド・ウエルマン、リチャード・マシスン、マーガレット・セント・クレア、オーガスト・ダーレス、アルジャーノン・ブラックウッド、クラーク・アシュトン・スミスなど、怪奇小説界では名の知れた原作作品がずらりと並んでいて壮観です。
残念なことに、ロッド・サーリングは『四次元への招待』終了後の1975年、長年に渡る仕事&タバコ中毒がたたったのか、わずか50歳の若さで急死してしまいます。サーリングのような天才は、層の厚いアメリカTV界でもその後二度と現れませんでした。
6 「どんでん返しもの」の代表作5本+α
最後に、参考までに「どんでん返しもの」の代表作を並べてみます(どれも脚本・演出共に見事な作品ばかりです)。
〈以下、ネタバレがありますので、未見の方はドラマを観てから読むことをお勧めします〉
『連れて来たのはだれ?』(脚本 アール・ハムナーJr 監督ロン・ウィンストン )
種明かしはもうお分かりですね。 二人の男女は、ミステリーゾーンというおもちゃの国の住人(人形)だったのです。
別の解釈をすることも可能です。 二人の男女は、巨大な異星人に人類がペットとして飼育されている世界を描いたアートアニメの傑作『ファンタイティック・プラネット』と同じ状況に置かれていると考えることもできます。ラストの母親と子どもの会話からすると、こちらの可能性のほうが高いかもしれません。
「生きている人形」または「縮小人間」を題材にしたSF映画は、戦前の『悪魔の人形』(1936)や『ドクター・サイプロクス』(1940)から、戦後のジャン・マレー主演『ポケットの恋』(1957)、『シェイプ・オブ・ウォーター』の元ネタ『大アマゾンの半魚人』のジャック・アーノルド監督、リチャード・マシスン原作・脚本『縮みゆく人間 』(1957) 、巨大生物大好き監督バート・I・ゴードン『人間人形の逆襲』(1958)、最近の『ダウンサイズ』(2017)までSFの1ジャンルとして何本も作られています。
上記の映画は、小説の技法で言えば基本的に三人称客観の視点で描かれています。これに対して『連れて来たのはだれ?』の視点はほぼ一人称と言ってよく(完全一人称は映像作品では難しいです)、視聴者は主人公夫婦の視点と同化し、奇妙な町で二人が体験する様々な異変を準体験して行きます。ラストで視点は突然三人称客観に切り替わり、巨大な子どもの出現とその前に置かれた「おもちゃの国」に驚愕の眼を見張るのです。
ラスト直前まで視点を人形(ペット?)だけに絞った手法が極めて斬新で、視点の切り替えによる対比(どんでん返し)が大きな効果を上げています。
『遠来の客』(脚本リチャード・マシスン 監督ダグラス・ヘイズ)
ドラマは、アメリカ西部を思わせる荒野にポツンと立つ一軒家のロング・ショットら始まります。
ラストの通信音声以外、サイレント映画のように一切の台詞がないのがすごいです(理由は最後に分かります) 。
まず冒頭のさりげないカットによってこの物語はアメリカの田舎の話なんだなという先入観が視聴者に植え付けられていますから、我々はごく自然に中年女性の視点に同化してドラマを観ています。ところが、ラストで地球人だと勝手に思い込んでいた女性が、実は巨大な異星人だったという驚くべき事実を突き付けられてショックを受けるという仕掛けになっています。
攻撃を仕掛けてくる小さな宇宙人を撃退してほっと胸を撫で下ろしたところで、視聴者は視点の逆転を迫られるのです。 最後は、破壊される宇宙船の乗務員である地球人の視点から巨大な異星人を驚異(脅威?)の眼で見つめ直すという二重の仕掛けが施されている訳です。
この辺りは、『連れてきたのはだれ?』とは逆の手法が使われていますが
(こちらは巨人からの視点)、衝撃のラストとそれまでの流れとの対比的演出が凄まじい効果を上げているのは同じです。
全編、アグネス・ムーアヘッドの一人芝居。 舞台劇にしてもいけそうですね。 アグネス・ムーアヘッドは、『市民ケーン』、『偉大なるアンバーソン家の人々』、『ふるえて眠れ』などに出演した名女優です。 日本ではTVドラマ「奥様は魔女」のサマンサのお母さん役として知られています。
『奇妙な奈落』(脚本ロッド・サーリング 監督ラモント・ジョンソン)
『連れて来たのはだれ?』と同系列の「人形」、あるいは「縮小人間」を題材にした作品。『連れてきたのはだれ?』と同じくラスト直前までが人形たちの視点、ラストでそれが転換して人間界からの三人称客観視点に切り替わります。
脚本・演出共に非常に切れ味が鋭く、鐘の音など途中の伏線とその回収ぶりも鮮やかです。視点とラストを工夫しただけでこれほど衝撃的なドラマになるのですから、ロッド・サーリング、やはり眼の付け所が違います。天才の天才たる由縁ですね。
バレリーナの涙は、捨てられた人形たちの悲しみだったのでしょうか。 後の『トイ・ストーリー』に一脈通じるものがありますね。 パニック・サスペンス風の『連れて来たのはだれ?』と比べると、こちらは抒情的な演出になっていて深い余韻を残します。
ロッド・サーリングはこのテーマが結構好みだったらしく、上記2作品の他にも『マネキン』、『生きている人形』、『人形の家で』、『 殺してごめんなさい 』、『 人形はささやく 』などの「人形もの」が作られています。
『狂った太陽(真夜中の太陽)』(脚本ロッド・サーリング 監督アントン・リーダー)
地球温暖化の逆を行っているラストの大どんでん返しが秀逸。 それだけではなく、持てる者と持たざる者、今も昔も変わらない資本主義の格差問題をさりげなく提示しているところにロッド・サーリングらしさが出ています。
『人類に供す』(脚本ロッド・サーリング 監督リチャード・L・ベア 原作デーモン・ナイト『人類供応法』)
「うまい話には裏がある。」という非情に苦くて残酷な味の教訓話ですが、「外部の手を借りなければ、人類は戦争や飢餓をなくせないのか。」というサーリングの重い問いかけが感じられる作品でもあります。
以上の作品の他にも、
若返りを題材に老夫婦の究極の愛の決断を描いた傑作『たそがれの賭け』 (脚本ロッド・サーリング)。 泣かせるラストが素晴らしく、賭博の胴元、テリー・ザバラスもいい味を出していました。
中年女性が、娘時代の過ちを止めようと過去の若い自分を追いかけるタイムスリップもの『蘇った過去』(脚本リチャード・マシスン)。
博物館に展示してあるドールハウスの女性人形に恋をした主人公が、最後に自分も人形になって望みをかなえる美しいファンタジー『人形の家で』 (脚本:チャールズ・ボーモント)。
異星でアリより小さな人々の支配者になった宇宙飛行士が、ラストでビルよりも巨大な異星人に遭遇する『ガリバー旅行記』のパロディ『こびと虐殺(リトル・ピープル)』(脚本ロッド・サーリング)。
異常と正常、あるいは美醜とは何かという本質に鋭く迫った『みにくい顔』(脚本ロッド・サーリング)。視聴者にはラスト近くまで看護師たちの顔がよく見えないという演出上の工夫が効果を上げています。
以上の作品以外にもどんでん返しものの名作は山ほどあって、とても書き切れません。(汗)