白うさぎ
宇宙が好きな友達がいる。
彼は森羅万象になんらかの因果を求めるタイプの人間で、それはとても真剣な意味での宇宙を愛している。
彼は、
「白色光が綺麗だって言うのはナンセンスだよ。白色光っていうのは雑多な光が混ざり合っていて、吐き気がするぐらいだよ」
とかそんな具合に、世の中の一般に対して攻撃的になることが多くある。
格好はいかにもインテリジェンスな好青年という風である。
若手俳優が演じるハンサムな教員という様な熱も感じられる。
肌はツルツルとしており、こざっぱりとした匿名的な服に身を包む。
腕には周りの空気を単一的に振るわせ続ける機械仕掛けの時計をシックにはめ、爪は綺麗に形を整えられて、よく手入れがされた革靴を履いている。
彼は自分自身の見た目を美麗且つ、魅力的に見せることに投資することを得意としているみたいだった。
その匿名的な服に至っても、ファストファッションによるものではなく、デザイナーが試行錯誤することによって作られたものであることは間違いがない。
その匿名性によって彼の価値が明らかに向上しているようである。
その見た目から容易に想像されるように、彼は短期的に見て女の子に不自由しないみたいだった。
彼が青山のルーフトップバーのカウンターでウォッカマティーニを嗜んでいる。
すると、五分もしないうちに赤いパンプスを履いた美しい女の子が、スッと隣の席にやってくる。
そして女の子は「隣に座るわね。あなたってとってもチャーミングみたいだったから」という。
二人は互いの瞳を見ながら語り合い、時折控えめな笑いが溢れることもある。
ただ、一時間を超えて会話が続くことはまずない。
一定時間を越えると、たちまち女の子が愛想を尽かしてしまうからだ。
もちろん、彼のあの喋り方が問題だった。
女の子だって夜も更け切った青山の街を見下ろしながら、ビックバンの前にインフレーションが起こっていて、経済用語のインフレーションはこれが由来であるとかいったことを永遠と聞かされているわけにはいかなかった。
そんな彼は、僕のことを呼べばその場所に五分とかけず到着する消防車だとか救急車だとかそう言った類の緊急車両と勘違いしているような節があった。
実際的に僕は大抵暇であったし、彼に呼ばれれば多分地球の裏側にだって足を運んだかもしれない。
これはあくまで仮定の域を出ない話であって、ただの比喩であることを強く確認しておきたいのだけれど。
いつもの通り僕は、今日も彼に呼び出されていた。
メッセージがなんの前触れもなく彼から昨日の夜届いたのだ。
親切に落ち合う店の位置情報も一緒だった。
京成上野駅で降車して、十分弱歩く。
その目的の店までの道はひどく入り組んでいて、Appleのマップにはひどく感謝しなければいけない。
店はあからさまな路地裏にあって、知る人ぞ知る名店と言った風体をしている。
引き戸を開け、中に入る。
店内は間接照明の淡い光と、ブックシェルフ型スピーカーから流れるジャズ演奏で小粋な雰囲気だ。
カウンターでは男女がその仲をさらに高次なものへと発展させるべくショットカクテルを飲んでいる。
男性はよく仕立てられたネイビーのスリーピーススーツに、女性はワインレッドの上品な形をしたワンピースドレスに身を包んでいた。
その光景は現実味を大いに欠いていた。
映画やドラマで使われるバーのセットをそのまま切り取って貼り付けたみたいだ。
現実の僕みたいな一般男性がこの場に立っていて良いはずがない。
不思議の国に迷い込んだアリスみたいな気分だ。
もちろん、僕は決してアリスみたいに可愛いらしい見た目ではないのだけれど。
しばらく立ち尽くしていると、カウンターの奥の席に動きが見える。
男が手を上げたみたいだった。
カメラのレンズがぼやけた花に焦点を合わせるみたいに十分に時間をかけ、目の焦点をその男に合わせていく。
その男は、彼であった。
いつものようにどこまでも匿名的な服に身を包んでいる。
匿名であることを彼は罰として課せられているみたいだった。
僕は彼の隣に座る。
「やあ、兄弟」
と彼は言った。
彼はこういう風に翻訳された文章みたいな喋り方をする。
やぁ、と僕は返す。
バーテンダーに彼と同じものを頼んだ。
ダイキリだ。
正直な話、酒がなくても雰囲気に酔えそうだった。
このよくできた一見映画セットのようなバーの非現実的な空間による現実的な体への生理学的作用で十分に酔ってしまいそうだった。
「君に話がある。ある意味ではとても大事な話だ」
彼の目が僕の目を捉える。
彼の顔は強張り、肩は大きく息を吸う。
ゆっくりと口を開ける。
「君と会うのはこれで最後にしようと思う。エントロピーは十分に高まった。僕らの間で悠久のどこまでも不可逆な時が流れた。つまりはそういうことだ。さて、最後の晩餐としよう」
彼は、カクテル・グラスを手に持って少し上に傾ける。
僕も慌ててカクテル・グラスに手を添えた。
「亡き時間に」
彼がピシャリとそう言って、我々は乾杯した。
彼の頭の中では全て片付いているのだろうか、僕は「ああ、そういうことね。エントロピーか、確かにそうだね。納得できるよ」といった風な表情を浮かべようと努めることに手一杯でこの話の顛末を全くと言って理解していなかった。
なぜ急に、彼は僕とのおそらく悠久的な別れをここに宣言しなければいけなかったのだろうか。
もし会いたくなかったのなら金輪際僕を呼び出さなければいい話なのだ。
僕から彼を誘ったことは、記憶している中では一度もなかったように思う。
彼の中でケジメをつけるために宣言したのだろうか。
ますますわからない。
僕が何か彼の機嫌を損ねていたのだとしたら、どこかの時点でぷつりと僕を誘わなくなっていただろうし、そもそも彼の気に入らないような言動は避けていたつもりだった。
そしておそらく彼のことだから、僕になぜこう宣言したのかは明かさないであろうことは明白だった。
僕が混乱の渦中を彷徨っている間に、彼はダイキリを半分以上飲み干していた。
そんなに勢いよく飲むようなものではないはずだが、やはり彼もなんらかの混乱の渦中にいるのだろうか。
あるいは、すでにそれ相応の時間が私が思考を右へ左へフラフラさせているうちに過ぎ去っていってしまっていたのだろうか。
僕はゆっくりとグラスの縁を口につけ数ミリ角度をつけて、液体を口の中に滑り込ませる。
液体は喉を熱くし、食道を焼きながら胃袋に落ち着いた。
血中に勢いよくアルコールが溶け出して、僕自身の内と外が曖昧になり境界線が溶け出していく。
その感覚を楽しみながら、ハイスツールにどっぷりと沈んでいく。
僕はお酒を飲むときはこの一連のルーティンを大切に繰り返す。
僕と彼は一言も交わすことなく、各々のペースでグラスを空けた。
空にした。
ドーナツと同じ形なのはグラスだったか、それともマグカップだったか。
もしかしたらグラスもマグカップもドーナツと同じだった気もするし、もしくはどちらも違う様な気もしてきた。
いつか彼がダンキンドーナツでコーヒーを啜りながら高説垂れてたが、すっかり忘れてしまった。
空になったグラスをバーテンダーがそっと音もなく下げると、僕らは支払いを済ませた。
そして重いオーク調の扉を開けると、いくらか冷えた空気に晒され、夜の街灯に照らされる。
彼は襟を正すと、僕の目を深くじっくりと一瞬間の間見つめたかと思うと、右手を上げてそのまま踵を返し雑踏の方へ歩いていく。
人が行き交う夜の青山通りに彼は匿名的に滲む様に消えていく。
僕はその様を見届け切らないうちに踵を返し、雑踏へと歩を進める。
東京というのは案外狭い街であって、常に享楽に困らない街であるから、またどこかで彼と出会うかもしれないと思う。
その時は今日の突発的な発言(いや、彼にしてみれば熟考の末の発言なのかもしれないけれど)の真意を問いただしたい、僕がひどく落ち込むことになるのかもしれないけれど。
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