囚われからの自由は可能か:劇団態変「心と地」によせて
フィクションは事実ではない。しかし、秀逸なフィクションは、人間の業をめぐる真実を呈示する。
非常時において、容易く安全地帯に逃げられる者は、富める者、そしてその取り巻きたちである。もっとも、平時より安全地帯に身を置く者は、逃げる必要さえない。
窮する者は、富める者に生殺与奪の権を握られているゆえに、富める者に媚びへつらう他には、窮状から抜け出しうる術を持たない。
救われる者と、救われざる者との線引きには、客観的な合理性などなく、ただ、線引きを行う側の恣意にのみ委ねられている。恣意の結果であるはずのものに、正当性を付与しようとするうち、救われざる者が、救われるべきではない者としてますます貶められていく。
安全地帯に身を置く者にとっても、しかし、安息は手の届かぬ夢である。身の安全がいつ綻びるとも知れない切迫感。取り残してきた者どもへの憐れみと後ろめたさ。それらを自ら打ち消すために、ひたすらに働く。ときにそれが「大義」の名のもとに課せられた苦役への隸従であろうとも。
苦役を課す側の者とて、ひとたび「大義」が疑われれば、いつ我が身の置き場が奪われるかもしれない怖れを抱いている。そして、その怖れは、しばしば予期しないかたちで不意に我が身に降りかかる。
誰もが何ものかに囚われ、囚われから自由になろうともがくほど、それ自体もまた、自由という価値への囚われへと帰結する。
生まれ落ちる時代も、自らを産み落とす親も、また自らの身体も、自ら選ぶことはままならない。存在はその根源からして不自由であり、不自由を取り払おうとするあらゆる営為は、身体がそのあるがままで、今ここにしか存在し得ないという事実の前に頓挫する。
囚われからの自由というものがもしありうるとすれば、それは、囚われて在ることをひとまず受け入れ肯定するその都度の気づきに他ならないのかもしれない。宇宙的視座からみた自己の存在のちっぽけさに思いを致すとき、嘆くでも、卑下するでもなく、それでよい、その程度のものかと観念し、思わず漏れ出る笑いとともに。
(2021年11月14日 筆)