過去・現在・未来について【自分年表】
こんばんは!三津谷です。
アスリートのマネージャーをしたり、
スポーツイベントを企画.運営したり、
野球未経験から140km/hを投げることに挑戦しています。
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ビジョン(なりたい姿)をより明確にする期間とし、
8月14日(金)のブログでは、第二章の進むべき道を明確に記したいと思います。>>>>>>>>>
二日遅れの投稿。
自分の中でどんどんハードルが上がっていったので一度吐き出します。
このお盆は過去を振り返りながら、
自分の心の声に耳を傾け続けた時間になった。
まず、1、2週間そこら考えたからって、
簡単に決まるものではないというのが一つ。
いかに普段は自分がなりたい姿を想像することから目を逸らしていたかがわかる。
僕が思考するにあたり、
まずおこなったのは過去の整理。
1回のnoteでは書き終えることができなそうなので、
しばらくは自分の過去と未来の話が中心のnoteになりますが、
どうか飽きずに読んでいただけたら嬉しい。
今日は過去から今に至るまで。
このあと書いてある”自分年表”はみんなにぜひオススメしたい。
”書ききれなかった過去もあったのでそこはまた別の機会にします。”
◼︎自分年表
誕生:1995年〜2020年:今まで
1995年
3000g オーバーで生誕
父母、姉1人の家庭に生まれる
1995~2000年
正直あまり記憶がない。
母曰く、どこにいくときも姉に必死についていく日々。靴が逆だろうがなんのその。とにかく這いつくばってでも姉についていったそう。
2000年~2002年
公立の幼稚園に入学する。
興味がないものには、一ミリも興味を示さず、
自分がハマったものには食事も、寒くても暑くても気付かなかったそう。
この頃、初めての夢ができる。
『ゴミ収集車のおじさんになること』
毎朝ゴミ捨て場にいって、おじさんたちを応援していたそう。
2002年
公立の小学校入学。
母親の趣味のバレーボールについていっては、体育館の倉庫で自己流トレーニングを積んでいた。(将来の夢はSASUKEに出場)
2003年
両親の離婚。母側に引き取られる。死ぬほど泣いたのは今でも覚えているが、離婚がどういうことなのかは理解できずにいた。
友だちの家族に温かみを感じる。
2004年
何かしらのスポーツをやりたいと思い始める。
ただ全てやってみないと気が済まないようで、サッカー、野球、バスケと当時の三代スポーツすべての少年団の体験にいく。
最終的に部員が7人しかいなくて困っているという出席番号がうしろの友達の勧誘に、小学校のサッカー部に入部。
2005年
運動会とは無縁だったが、サッカーを始めた影響かクラスで一番足が速くなる。
好きだから得意になれる、得意だから好きになれるというのはおそらくこのことだと思う。とにかく体育が大好きだった。
2006年
小学2年生のときに仲よかったメンバーがクラス替えで再集結。とにかく毎日楽しくて仕方がない。
その中でも学校の先生からの言葉は今でも覚えている。
(体育やレクリエーションの時間を増やしてくれとの要望に対して)
『権利が欲しければ、義務をはたしなさい。』
クラス全員で漢字ドリルを1日ですべて終わらせるという、小学生らしい義務をはたし、体育(レク)の権利を得る。
2007年
足が速いとクラスで中心的な存在になる説は確かである。委員長系のことは率先して買ってでた。またサッカークラブでキャプテンになる。悩む日々もあったが、自分から行動することの大切さを学ぶ。
このとき携帯が欲しいと親に交渉。もちろんNGだが条件つきだった。
『もし、自分で調べて、自分で払う、かつ私を納得させられたらいいよ』
その日に1人でソフトバンクショップにいき説明をうける。
お年玉から捻出すれば払えるというプランを提示。この頃から携帯代は自分持ち。
自ら行動することは、母からの教えが大きい気がする。
2008年
中学校入学。
姉が勉強できないで怒られていると勘違いし、勉強をまじめに取り組む日々。※実際は勉強ができないことに怒っているのではなく、やること(勉強)をやらないで遊んでいることに怒っていたらしい。
2009年
サッカー部で副部長になったり、学校の委員会では委員長になったり。
中学2年生はあまり強い記憶がない。
2010年
三津谷家の交渉、第二弾。
学習塾に通いたいと言い始め、
1,料金がどのくらいかかるのか、
2,通うために必要なものはなんなのか。
3,なぜ必要なのか
これらを紙にして提出。
三津谷家の承認決済がおり、学習塾に通わせてもらうことに。
この教育は本当に自分にとって大きい。
2011年
無事に第一志望の高校に入学。
部活にはついていくのに必死だった。なにかつらいことを一緒に乗り切った仲間はずっと長くつづくものだとおもう。今でも高校の部活仲間は将来の話や現状報告だけで話が盛り上がる。
2012年
学校の体育祭にて、運動神経がいい目立つ人がいないという下馬評を覆して優勝。”弱小チームでいかに勝つか”という戦略を考える楽しさを知る。
この頃、学校の文系理系の進路選択をせまられたこともあり、周りも自分も将来について考え始めるが、そんなのすぐ決まるはずがなく。
まわりが進路を決めかねているのを横にみながら、自分は教員になりたいという想いをもち文系を選択。当時は社会の教員になろうと考えていた。
この頃進路を一緒に考えてくれる先生やそんな授業があったらいいなと思い、進路指導もしたいと同時に抱く。
2013年
社会を教えたいというよりも、進路指導をしたいという想いで教員を目指していたこと、担任の先生が体育の先生ということと、自分自身が体育が得意だったこと。いろいろ重なり、体育の教員を目指すことにシフトチェンジ。
三津谷家の交渉、第3弾。
こちらも同じく学習塾と受験校について。ここまでくればこの形式はお手のもの。
母への提案がとおり、自分の行きたいと思える大学を受験をさせてもらい、塾にも通わせてもらった。
とはいえ、お金がかなりかかっただろう。。。
少しずつ親には恩返しをしたい。
2014年
大学入学
保健体育の教員になって、進路指導をしたいという一心で大学へ入学。
このときのプランとしては、4年生大学だったので、大学二年間で座学の講義力をつけるため学習塾でアルバイトしながら実践練習。後半二年間では、スポーツの指導経験を積むため、スポーツ系の指導の勉強ができるアルバイトを考えていた。
勤めていた学習塾では、自分自身で授業プリントを作成しながら、授業の構成も考えていた。
また個人経営の塾だったので、経営の楽しさ苦しさなんかも聞いて、自分自身で何かを起こしたいという気持ちがこの頃から少し芽生えた。
2015年
大学2年
学習塾での授業にも慣れてきたのと、教育以外の分野にも触れた方がいいという諸先輩方のアドバイスもあり、飲食店でのアルバイトもスタートさせた。
このときのお店は、月に一回その月の目標を個人、お店で決めて実行するという店舗だったので、目標をきめる→実行する(達成する)楽しさをここでは教えてもらった。17:00出勤にもかかわらず、午前の夏季講習を終えてうたた寝をしてしまい、二日連続で寝坊遅刻のときは、後にも先にもこの世の終わりかとおもったのはこの時くらいかと思う。今でも忘れない。反省。
2016年
大学3年
塾長にはずっと相談していたので、2年間勤めた学習塾を円満退社。人前で話すことを二年間も続けたここでの経験は大きかった。
新しくサッカースクールと保育園での体操指導をはじめた。
行っていた保育園の地域(環境)によって、子供の様子が全く違うことを知り、
ずっと高校の教員志望だったところから、もっと早い年代から関わりたいという想いを持ち始める。またこのとき師との出会いもあり、人生が一気に加速したようにおもう。大学3年生は大きく変化がありすぎたので、別の機会に書いていきたいともう。
2017年
大学4年
完全に教員志望もやめ、幼児体育の分野で就職に向けて動いていたところに、視野が広がる話をいただき一転、広告代理店へ就職を決める。
本当に激動であった。
”決めて動く。動くから決まる”
この連続の一年だった。
2018年
社会人1年目
とにかく働いた。人とのつながりをとにかく大事にしたく、会社的にはいく必要がないかもしれない現場でもすべて足を運んだ。そのおかげか、数年たった今でも仕事をご一緒させてもらえる方がいる。
ずっと教育(特にスポーツ指導)の分野しか知らなかったので、世の中はこんな会社もあるのか(こんなお金の流れ方もあるのか)という発見つづきだった。
2019年
社会人2年目
スポーツ選手のマネジメントの仕事をスタート。これもまた知らないことばかりで感動の連続。自分が中学生のときに画面で見ていた人と、仕事でご一緒させてもらえたり、当時の自分に『お前はこの人と将来仕事するんだぞ。』と言われても絶対信じないとおもう。本当に人生何が起こるかわからない。
2020年
現在
コロナウイルス感染拡大の影響もあり、外食,外出ができず、1人で考える時間もふえた。今まで忘れてしまっていたことを思いだすこともできた。
これを機に僕の人生は大きく変わっていくとおもう。
◼︎ここまで振り返って。
幼少期
この頃から興味があるものないものでハッキリしていたということ、何でやってみないと気が済まないタイプだったことを聞き、
なんとなくの自覚もあったが、母に言われての納得感のが強かった。
やりたいこと全てやろう。自分が好きなものだったらとことんやり切れるだろうというのも確信に変わった。
学生時代
本当に欲しいなら、本当にやりたいなら、
『自分で調べてわたしを納得させて!』そんな教育方針(*母曰く、最初からそんな教育方針にするつもりはなく、"本気でほしいのか。" "本気でやりたいのか" を試すためだったらしい。)は、
自分の中に生きています。
本気で考えて出した結果(行動)なら、
きっと応援してくれるだろう
そんな自己肯定感を育ててくれたのは紛れもなく母で、おかげで何ごとにも挑戦してみたいという意欲が湧く。自分にも子供ができたときは、『自分で調べておれを納得させろ。』と言っていると思う(笑)
社会人
今まで、有難いことに忙しい毎日を過ごさせてもらっていた。
新たなことをたくさん学び、そこで得た経験は大きいが、
その””良い経験ができている””という過信。
忙しさを言い訳に、自分が本当にしたいこと、成し遂げたいことを考えることも同時にしなくなっていたのも事実。
このまま必死に頑張っていれば、
自分のなりたい姿になれて、自分が人生を通して絶対に実現したいことが決まったときには、それを実現する能力がついている。そう思っていた。
そうじゃない。
(なりたい姿を)決めるからなれるんだ。
そう教えてくれた人がいた。
社会人になってからに限らず、
本当にヒトとの出会いに恵まれている。
◼︎これからについて
現在、このnoteを書くことを通して自分の考えを整理できており、
本当になりたい姿を決めることを強制的に実施している。
そのおかげか、
高校3年生〜大学1年生当時に強く抱いていた教育への想いが再燃している。
この先は明日以降に書いていこうと思う。
2021年・・・・・・・
2022年・・・・・・・
2023年・・・・・・・
2024年・・・・・・・
2025年・・・・・・・
2026年・・・・・・・
2027年・・・・・・・
2028年・・・・・・・
2029年・・・・・・・
2030年・・・・・・・
野球未経験で140km/hを投げる。
#140キロプロジェクト 挑戦中
身 長:175センチ
体 重:65.6キロ
体脂肪:10.2%
球 速:101km/h
※2020年4月時点
※次回は8月30日に測定!
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