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甘野充のオススメnote

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2023年5月の記事一覧

原稿用紙5枚の掌編小説「横断歩道で」

 信号待ちをする車のフロントガラス越しに、一人の男が横断歩道を渡る姿が見えた。工場務めのような色褪せた紺の制服を着て、襟元は汗で濡れている。小ぶりのバッグを襷がけに背負った肩が歩くたびに傾くのは、足が不自由なのだろうか。通行人が足早に歩く中で、彼だけがスローモーションに見えるほど、緩慢な歩き方をしている。男は横断歩道の中ほどで立ち止まると、正面から照りつける西陽を眩しそうに見上げ、額から落ちる汗を手の甲で拭った。男の顔が露に見えたとき、僕はかすれた声で呟いていた。 ――K君

【掌編】『ナウ・アンド・ゼン』

 昔からそうだけど、時々自分の誕生日を忘れていることがある。  一日の勤めを終えて郊外へ向かう電車に乗り込むと、いつものようにドア脇に立ってただ通り過ぎる街を眺める。一瞬、暗い映画館にいてスクリーンを眺めているような錯覚にとらわれる。そして、目の前を通り過ぎた桜並木のピンク色の景色が、あの頃の自分に引き戻すスイッチになった。 『NOW & THEN』  そのアルバムはいつも行くレコード屋の壁面を飾るアルバムラックの一番目立つ場所に長い間飾られていた。  真っ赤なスポー

夢の配役(短編小説;9,600文字)

悪夢から逃れたい、最初はその願いだけだったけれど……。  暗闇の中を、俺はずっと走り続けていた。ひたすら走り、逃げていた。何から? ── わからない。何かおどろおどろしいものだ。俺を喰い殺そうと追いかけてくる。速力を緩めると、そいつはすぐ追いついてきて、耳の後ろに生臭い息を吐きかけてくる。  もうだめだ。心臓が破れそうだった。立ち止まろうとしたとたん、強く腕をつかまれた。 「うわわわわっ!」  ふりほどこうと、腕を振った ── そこで、目が覚めた。 「どうしたのよ? ……

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