そんな人間だから、君は成功できなかったんだよ
ナースステーションの前を通ったとき、後ろから声をかけられた。
「あの、私、今度結婚することになったんです」
「それはそれは。おめでとうございます」
若い女性看護師のIさんだった。呼び止めてまで報告するような関係でもない。だから何か話したいことがあるのだと、すぐに察した。
「彼は……Aなんですよ。みつるさん、知ってますよね?」
「あ、ああ……知ってますよ」
気まずい。もう話を打ち切りたかった。が、Iさんは続けた。
「Aがみつるさんは今どうしているのか、気になるみたいなんですよ」
「はは。そうですか。元気ですと伝えてください。お二人で幸せになってくださいね」
笑って受け流す。それしかできなかった。
病棟の廊下を歩きながら、暗く憂鬱な気分になって、窓の外を見た。木の枝が風に揺られている。
まさかこの病院で彼の名前を耳にするとは思っていなかった。
思い出したくもない過去の自分を、誰かに知られてしまうのではないかと怖く感じる。
Aくん。かつて同じ病院で一緒に働いていた男だ。
八年前、リハビリ専門学校を卒業し、A病院に入職した。私にとって初めての就職であった。
A病院を選んだきっかけは、高校の頃に同じクラスだったОくんからの紹介である。
リハビリ専門学校の最後の年。あるリハビリ病院に実習へ通っているとき、たまたま彼もその病院を訪ねていた。
何やら坊主の男性から、ちらちらと視線を感じると思ったら、こちらへ近づいてきた。彼は恐る恐るといった調子で話しかけてきた。
「あの、間違っていたら失礼なんですけど…みつるくんですか?」
「はい、え……?」
「あ、Оです。高校で一緒だった」
およそ十年ぶりの再会であった。とても驚いた。
高校時代に彼と深い交流はなかったが、穏やかで純粋な性格で知られ、癒やしを与えてくれるような印象を持っていた。
顔はあまり変わっていないようだが、高校の頃より堂々とした話しぶり、眉間に皺を寄せた神経質な表情は、私が知っているものと少し違うように感じた。
そこで彼に聞かれるままに連絡先を交換すると、その日の夜に早速メールが来た。
「今日みっちゃんに会えて、すごいびっくりしたよ! 実習頑張って!」
「ありがとう! 俺もОちゃんに久々に会えて嬉しかった!」
近況を報告し合う。Оくんは大学を卒業してから、A病院に勤めているらしい。理学療法士として七年目になるそうだ。
「ところで、今度上司に会ってみない? とにかくすごい人なんだよ!」
その上司は、ベテランの作業療法士で……偉大な経歴があって……豊富な知識や技術を持っていて……優れた人間性で……最高の指導者で……
彼は数々の称賛の言葉を並べながら、熱心に説明した。
彼の話を聴いていて、上司に対する崇拝のようなものを感じた。Оくんの考えが間違っているとは言わないが、あまりに真っ直ぐで、周りが見えなくなっているようだ。
が、高校の知り合いということもあって、疑い過ぎるのはよくないと、とりあえず上司であると言うKさんに会ってみることにした。
後日、Оくんに導かれるままA病院に入った。病棟を回る前に、応接室でKさんを紹介された。
「やあ、はじめまして。みつるくん。Оくんからいろいろ聞いているよ」
Kさんは四十代らしい。が、随分老けて見える。目の下のクマが目立ち、なんだか疲れていそうな雰囲気である。口角は上がっているのに、目があまり笑っていない。気味が悪いほどに落ち着いた話し方をする人だった。
「みつるくんはさ、どこに就職するつもりでいるの? ……うんうん、そうか。せっかくここまで来てくれたから教えてあげるね。実はね、どこへ行っても結局やることはあんまり変わらないよ。僕から言わせればね。
みつるくん。Оくんから聞いているかもしれないけど、僕はね、いろんな病院の課長を経験しているし、県士会でも理事を推薦されるくらいの実績がある。そんな僕のもとで勉強するところを想像してごらん。他の病院に僕ほどの腕を持った作業療法士はほとんどいない。それに、このレベルの人から直々に教えてもらえるなんて、普通はあり得ないことなんだよ。君の周りの作業療法士たちよりも大きな成功を手にすることができるし、ここを辞めたってどこでもやっていける。
もし君がこの病院に入るなら、僕が君を一流にしてあげよう。Oくんと実習で会ったことも、僕に会ったことも、みんなそのための縁だったんだよ」
こんなことを真顔で話すKさんと、それを頷きながら聴いているOくんに不信感を抱いた。ここに来る前から想像していたことではあったが、違和感は間違っていないと確信した。
だが一方で、Kさんを煽てていれば、大きな問題は起きないかもしれない、この病院で出世できるのかもしれないとも考えた。
私には経済的安定が必要だった。結婚を前提に付き合っている恋人がいるからだ。その恋人と就職したらすぐに結婚する約束をしている。
そこそこ高い給料と週末に休みやすい環境。Оくんの話を聞く限り、A病院はその条件に合っているようだった。
また、同じ部署にOくんがいることが心強い。私のことを知っている柔和な人がいることで、人間関係にそんなに悩むことなく働けるかもしれない。
私はA病院に就職した。
リハビリスタッフは私を含めて僅か四人。KさんとОくん、同じ専門学校の同級生Aくん、そして私である。
Aくんは同じ専門学校の同級生とはいえ、学科が異なり一度も話したことがなかった。ただ、二十一歳の彼は元サッカー部で、異性からよくモテる男であることは知っていた。
Kさんは入社して早々、私を会議室に呼び出した。少し声のボリュームを抑えて言う。
「ああ、座らなくていいよ。一つだけ、伝えたいことがあるだけだから。
みつるくんは特別な人だからね。基本給をAくんより一万円高くしてもらったから。あ、くれぐれも言わないでね。これは君と僕だけの秘密だよ。じゃあ、よろしくね」
Kさんは、私が首席であったことやОくんから聞いた高校時代の情報から、過度な期待を寄せているようだった。
自分はこの一万円に見合う仕事ができるだろうか、少し不安になり、Aくんに対しても後ろめたい気持ちになった。
リハビリを実施するためには、患者の心身状態をアセスメントしなければならない。だが、Kさんの方針でアセスメントシートの類は使用させてもらえなかった。私とAくんは白紙に思いつくままアセスメント項目と結果を記入してKさんに提出しなければならなかった。
夕方になるとKさんのところへ提出した紙をとりに行く。そこで合否が告げられる。私とAくんはほとんど同じ内容だったにもかかわらず、Aくんだけはいつも一回で合格だった。私はというと、たくさんの箇所に✕がついている。理由は教えてもらえず、家で勉強してくるよう命じられた。
これは私に期待しているからだ。彼よりも一万円多くもらっているから、このくらいはきっと当たり前なんだ。そう思って自分を励ました。
ある日、提出したアセスメントについて、皆の前で指導を受けていたときのことだ。
「何これ? 自分で考え出した評価スケール? こんなのないでしょ」
「いえ、そういうスケールがあるのを学校で習ったんですよ……」
「ふーん。Aくん、知ってる? 知らないよねー?」
「いえ、常識っすね。誰でも知ってますよ」
その返答が予想外だったのか、Kさんの眉がぴくりと動いたのがわかった。アセスメントを書いた紙から視線を動かさない。じわじわとした緊張感が伝わってくる。
「……これが載ってる本ある? 出して?」
「はい……」
Kさんはその表や文章を何度も読み返して、考え事をしているようだった。しばらくして本を閉じ、こちらを見る。人を蔑むような目をしていた。その冷たい視線に縛られるように、体が硬直した。
彼は明らかに理不尽な理由をつけ、今後このスケールを使用することを禁じた。
OくんとAくんがスタッフルームを出た後、私はKさんのデスクに呼ばれた。少し声を小さくして話し始める。
「みつるくん、君は日本語から勉強し直した方がいい。そうだ。これからは作文も毎日提出しなさい。僕が見てあげるから。
……そんなしょんぼりした顔しないでよ。僕だって面倒だよ? でも、君のためを思ってやってあげるって言ってるんだよ? 大人になってこんなこと言ってくれる人、普通いないよ? みつるくんはさ、社会人になるのが遅かったっていうのもあるけど、人間として未熟すぎるよ。他の病院だったらとっくに辞めさせられてるよ?
こんなに仕事できないのに見捨てないであげてるんだから、感謝してほしいね」
「はい……ありがとうございます。今日から作文を書いてきます」
次の日から、提出した紙の合否だけでなく、作文や人間としての振る舞いにも点数を与えられるようになった。そのほとんどが、二十〜四十点の間である。
私は、Kさんからどう思われただろうか、この行動は何点に値するだろうか。仕事中、そんなことばかりを考えるようになった。
日に日に自信を失い、萎縮していく。だが、これも私を成長させるために試練を与えてくれているのかもしれない。と、本当は違うとわかっているのに、そうやって自分を納得させようと努めた。現実を認めることを頑なに拒んだ。毎晩、勉強と作文に追い込まれながら。
ある朝、デスクでスマートフォンを操作していたAくんに挨拶すると、髪に驚いた。ほとんど金髪と変わりない色になっているのだ。医療従事者として、こんなに髪が明るい人は見たことがない。
その日の朝礼後、KさんとОくんがこそこそと話をしていた。Оくんが昼休みに会議室へ来るよう私を呼び出した。
「あの髪、みっちゃんはどう思う?」
「社会人として、というか、医療従事者としてどうかな……とは思うよね」
「だよね。今朝、Kさんと話したんだけどさ、今日の終礼でAくんを叱ろうってことになって」
「ああ、それはまあ仕方ないよね。あの髪色じゃ怒るよね、そりゃ」
「そこでなんだけど。Aくんって、なんかとっつきにくいというか……怒りにくいでしょ? わかる?」
「うん、まあ……」
「みっちゃん、代わりに怒られてもらっていいかな? いや、別に本当にみっちゃんに怒ってるわけじゃなくて、みっちゃんに怒ることで彼にもわかってもらうっていう流れだからさ。
終礼の後に、みっちゃんからも一言、何か言ってもらえると助かるよ。ね? みっちゃんならわかってくれるでしょ?」
Aくんを怒りにくいのはわかる。でも、だからといって私が怒られなければならない理由になるだろうか。それはさすがにおかしいだろう。と、言いたかったが、言えるはずがない。それを言ったら自分の居場所がなくなるのを理解していた。
「みっちゃんはいろいろわかってくれるから助かるよ。じゃあ、終礼でね。よろしく」
Oくんはにやっと笑って、その場を去って行った。自分は正しいと思い込んでいるような後ろ姿だった。
終礼の最後に、KさんがAくんを一瞥した後、目を細くして私を見た。
「最近、たるんでるんじゃないの? 家庭を持つなんて考えるには、ちょっと気が早いんじゃない? 段階を踏まないと。学ばせてもらうっていう気持ちが足らないように思うね。そういうとこ、身だしなみにも出るから。気をつけてよ」
Aくんはけろっとしていた。それもそのはず。Kさんは私に話しているからだ。私はその目が怖くて視線を落とした。
終礼後、帰ろうとするAくんに私から髪色が明るすぎることを指摘すると、
「そうっすか? ……あ、そういうことか。みつるさんも大変っすね」
と、笑った。
その頃の私の業務と言えば、Kさんの受け持っている患者のリハビリをし、カルテまで代筆していた。Kさんの字の書き方やサインの真似を徹底的に練習させられ、すべてKさんが業務を行ったことになっていた。
彼がリハビリしているところを、私は一度も見たことがなかった。
朝早くに出勤してロッカーや机の中を何度も確認する。昼休み、退勤前も同様の行為を繰り返した。専門学生のときに落ち着いていた強迫性障害は著しく悪化していた。
白衣のズボンは、ベルトをきつく締めないと履けなくなった。体重は二か月で五キロ減少していた。
昼休み、デスクで眠気を堪えながら作文を書いていると、スタッフルームの内線電話が鳴った。その音にビクッと驚いて出ると、Oくんを訪ねるものであった。彼はいつも煙草を吸っている時間である。そのことを知っていたので、初めて喫煙所のドアを開けた。
すると、彼は他部署のスタッフと一緒に雑談しながら、煙をふーっと吐いていた。
「Oちゃん。今さ、〇〇さんから連絡あったよ。来れそう?」
Oくんは煙草の先を灰皿にトントンと叩くと、誰が見てもわかるほどに不機嫌な表情に変わった。
「ん? ちょっと来いよ」
こんな低く恐ろしい声が、彼から発せられるなんて思ってもみなかった。
早足な彼の後ろをついて喫煙所から出ると、人気のない静かな廊下で止まった。周囲を注意深く確認すると、私に向かい合う。
「自分の立場わかってんの?」
「何のこと?」
「何のことじゃねえよ。自分さ、一番の下っ端じゃん。他のスタッフの前で気安くOちゃんって呼ぶなよ。ここでは友達じゃなくて先輩だからな。次に人前でOちゃんなんて呼んだら許さないからな」
「……すいませんでした」
もう限界だ。これ以上、この状況に耐えることができない。せめて、少し同情してもらうだけでいい。それだけで救われる気がした。
私はOくんに強迫性障害や睡眠障害を抱えていることを打ち明けた。
説明に彼が苛々しているのがわかった。私は慌てて早口で話した。
「ふうん。そういう病気あるんだ。知らなかった。で? それと仕事って何の関係があるの?」
「え……。うーん、だから、精神的に負担を感じやすい性質と言うか……」
「メンタル弱いんでしょ? それを言ったらさ、こっちは何も言えなくなるじゃん。ずるいでしょ、それ。怒られたくないってはっきり言ってもらった方がよかったよ」
「いや、そういうつもりで言ったんじゃなくて……」
「言い訳じゃん。聞かなかったことにしてあげるから。そういうことは人に言うもんじゃないよ。聞く方も気分悪くなるし。っていうかテンション下がるしね。隠したまま働いてよ。俺もそういう人だと思って接するの疲れるからさ」
「……すいませんでした。これから気をつけます」
何度も何度も頭を下げた。Оくんは眉間に皺を寄せて、黙ったまま踵を返した。彼の背中が見えなくなると、私はトイレに駆け込んで嘔吐した。
Oくんが同じ人間であることが疑わしくなった。だがそれ以上に、彼が私を同じ人間であると思っていないようだった。
夕方、デスクのスマートフォンが鳴った。Kさんからのメールだ。ここ最近、Kさんからメールを通じて会議室に呼び出されるのが日課になっていた。
「十六時に会議室に来てください」
動悸がする中、鞄から書類を取り出して席を立った。
会議室に着くと、Kさんは気味が悪いほどにこにこしていた。
「座りなさい。……最近、表情が暗いけど、大丈夫? 精神的に弱っているんじゃない? どうしたの? 僕に話してごらんよ」
「いや、特に何もないです……」
彼は鼻でふっと笑った。更に口角を上げる。やはり目は笑っていない。
「いつもロッカーで何してるの?」
背筋が凍る。Оくんが話したのだと確信した。
「僕はね、今日から君のカウンセラーになってあげようと思って。上司だと思わずに何でも話してごらん?」
「いえ、本当に何でもないです……」
視界が暗くなるような錯覚に陥った。
目の前にいる男は、化け物だ。襲われる。
体中がぞわぞわとした不快感に包まれる。
寒気が止まらない。
「Oくんには話せて僕には話せないなんて、ひどいじゃないか。話してくれていいんだよ? 僕は今、カウンセラーKなんだって。
あ、ところでさ、初めてここへ面接に来たとき、結婚する予定だとか明るい顔で言っていたね。あれはまだ変わらないの?」
「一応そのつもりでいますけど……」
私が返答を終わる前にKさんが制止して、右手をくねくねと振った。
「いやいやいや。あはは。普通に考えて、だめでしょ」
「え、何でですか?」
「カウンセリングだと思って、しっかり聴いてね。仕事ができない。精神的に弱い。人間的に未熟。そんな君を一流の僕がいつも親身に指導してあげてるでしょ。なのにさ、何も変わらないし、変わろうともしない。こんな人が家庭を持てるはずがないでしょ。どうする? 子どもなんてできたら。言っちゃ悪いけど、こんな父親がいたら、子どもがかわいそうだよ。みつるくんもそう思わない? 本当はそう思ってるんじゃない?」
「……思っていません。思ったこともありません」
「それは君が世間を知らないから。君が思わなくても世間はそう思うよ。相手の女の子もその家族もそう思うって。
もしさ、万が一、万が一だよ。結婚式を挙げるようなことがあったら、僕とOくんは呼ばないでくれない? さすがにちょっと恥ずかしいんだよ。半人前の君を認めた人って思われたくないからさ。君には顔を立てるってことを学んでほしいな。よろしくね。
あと、みつるくんさ、音楽やってたんでしょ? どんなジャンルの音楽やってたの? 僕が頼んだら、この場で演奏してもらうことできる?」
「いえ……。音楽は僕にとって、とても大切なものでして、環境が整っていないと人前で演奏しないって主義でやってきたものでして……」
「その主義とやらは上司の言葉よりも大事なものなの?」
「いやいや、そういうわけではないのですが……」
カウンセラーだとか上司だとか、自分の都合でころころ変えるわけのわからない主義よりはましだろう、と頭の中で考えた。
目の前の男を想像の中で何度、殴っただろうか。あるいは泣けたならよかったのか。だがそれは、現実とは対極の姿だった。
彼に言われるがまま何もできず、ただ謝ってばかりいる自分。患者のことで家族が涙するときにしか溢れてこない涙。
どこにいても激しい劣等感と羞恥心を抱いていた。呼吸する粗大ゴミのような私に居場所はなかった。
「まあいいよ。冗談だから。なんか想像できるんだよねぇ。誰も聴いてくれないで思い悩んでる姿。
あのさ。誰も言ってくれないだろうから、僕が言ってあげる。
そんな人間だから、君は成功できなかったんだよ。わかる?
僕がプロデュースしてあげようか? ねえ、やっぱりここで少し歌ってみてよ。小声でもいいからさ」
「え……いや、あの、お金を払って観に来てくれた方々に失礼な気がします」
「ん? 歌えないの?」
「はい……すいません」
「……ふぅ。いいよ。何度も言うようだけど、そんなんだから仕事も音楽もだめなんだって。お金払って観に来る人って何? ごめんね、はっきり言っちゃうよ。……その態度、頭にくる。プロじゃないくせに偉そうなこと言うなよ」
私は彼の犬になるために生きているのだろうか。
これまで、絶望が心をえぐり、穴を深くしていた。が、このとき、穴の底に亀裂が生じたような感覚がした。
「は?」
Kさんは表情こそ変えなかったが、一瞬、時間が止まったように静かになった。
私自身、もう何でも言えてしまいそうだった。しかし、そうしてはならないことも冷静に考えることができた。
「……ん?」
「ばかにしてるんですか?」
「いや、そんなムキにならないでよ。僕の勝手な想像だって」
「辞めます」
「何を?」
「この病院、辞めます」
「……ああ、そうなると思った。あのね、この病院で精神病の人はすぐそう言うんだよね。だからカウンセリングやってあげるって言ってあげたのに。
あのね、君が精神病を隠してたことはいけないことなんだよ。面接で言うべきだった。そしたら雇わなかったのに。隠してた君が悪いんだよ。
ここは確かに、病院としては小さいけどね、僕がいるから一流。君がいるべき場所じゃなかったんだよ。君にはU病院みたいな三流が似合ってるよ」
「はい。……これ、お願いします」
「退職願」と書かれた封筒をKさんの方へ差し出した。
その後、退職までKさんとOくんは、約束したように私を無視していた。
Aくんはというと、これまでと何も変わらずに話をしてくれた。自分のことにしか関心がなく、私のことはどうでもいいという調子である。
退職の日の直前に、彼から言われた。
「みつるさんて、精神病なんすか? あんまそういうこと言うの辞めてもらえますか? 一緒にされたくないんすよ。あと、結婚式にはまじ呼ばないでくださいね」
僅か半年間の勤務だった。
ある日曜日。息子とショッピングセンターを歩いていると、前方から見たことのある姿が目に映った。
Aくんと看護師のIさんである。気づかなかったふりをしようと思って下を向いて歩いたが、彼らは私に気づくと声をかけてきた。
「あっ、みつるさんじゃないっすか。まじすごい偶然っすね」
「おお、Aくん。久しぶりだね。結婚おめでとう」
「うっす。あ、子どもかわいいっすね」
IさんがAくんの顔を見ながら微笑んでいる。
息子は人見知りをして「パパ、早く行こうよ」と手を引っ張って私を促す。
「ごめんね。それじゃあ」と言って去ろうとすると、
「Kさん、相変わらずうざいっすよ」
Aくんは歯を出してにたにたと笑う。
Kさんの話題が出てきて、私がどんな気持ちになるか彼にはわからないのだろうか。想像するやさしさも身につけていないのか。
悲しいことだが、Aくんに会って過去の戻りたくもない自分の顔に戻っていた。
知識と技術に確かな手ごたえを感じて、毅然と振る舞う現在の自分とは明らかに異なる顔である。
Iさんはその二つの顔を見て、不思議に思っただろう。裏の顔を見たと思っただろうか。
高校時代のOくんとA病院でのOくんの顔も、そうなのかもしれない。
そうやって私たちは、人生にいくつもの顔を持って生きている。
その違う部分の辻褄を合わせながら日々は過ぎていく。
私はこれから、いくつの顔を作っていくのだろう。いくつの顔に戻るだろう。
「そっか。大変だね。頑張ってね」
結局、誰も何も変わっていないんだな。
顔が増えただけなのだ。
息子の手を引き、前へ歩き出した。