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ボイトレ教室に来た漫画家

 高校生の頃、ボイストレーニング教室に通っていた。週に一回、下校時に電車に乗ってレッスン会場である楽器店に行く。スタジオの扉を開けると、いつも三〜四人の生徒が座っていた。私はグループレッスンに参加していたのである。先生がやってくると、音楽に合わせて呼吸の練習から始まる。

 通い始めてかれこれ一年近く経っていた。このレッスンを続けていて、変化をまったく実感できない。他の生徒たちの歌を聴いても、上達してるとはとても思えなかった。レッスンは楽しいが、料金も高いし成果が出ないなら、そろそろ辞めようかな。と考えていたそんなあるとき、スタッフや生徒たちが、とある話題で盛り上がっていた。どうやら、有名な漫画家Мさんがグループレッスンに参加することになったというのだ。
 私は少女漫画にまったく興味がないので、その人物のペンネームや作品名を教えてもらっても、何もわからなかった。が、彼女の漫画が連載されているという少女漫画雑誌は超有名だ。そんな名高い漫画家が、なぜボイトレに? そして、なぜこの場所を選んだのか? いろんな疑問が浮かんだ。が、私には関係ないと、話題についていくのを辞めて別のことを考えていた。

 その日はすぐにやってきた。いつものようにスタジオの扉を開けると、椅子が一つ増え、そこに若い女性が緊張した面持ちで座っていた。二十代半ばくらいであろうか。髪を明るく染めて少しギャルっぽくも見える。が、お洒落で華のある人だった。私が勝手に想像していた漫画家像とは大きく異なっている。むしろ、歌手で活躍していても遜色なさそうな容姿だ。Мさんは、いったいどんな歌声なのだろう。その場にいた生徒たちも彼女の存在に圧倒され、緊張しているのがわかった。
 Мさんの控え目な自己紹介の挨拶の後、いつものようにレッスンが始まる。一人ひとり歌う場面がやってきた。彼女の歌に皆の注目が集まった。固唾を呑んで見守る。
 
 あれ? ど素人……。

 肩透かしを食らった気分だったが、いっきにこちらの緊張がほぐれた。それにしても、漫画で成功しているのに、何を目指してここに通い始めることになったのか、謎は深まるばかりだった。この場違い感が堪らなく気になる。
 グループの生徒たちは、Мさんに興味津々だったが、私を含めた皆が人見知りなため様子を窺うばかりで、話しかけられないでいた。
 彼女とあまり交流が深まらないまま、何回かレッスンを共にしたある日のこと。

 レッスンの中で、私は何気ないジョークを口にした。それは特に笑いを誘うつもりではなく、受け流されるものとわかっていた。何も意味のないものだったのだ。その後、何事もなかったようにレッスンは流れていく。かと思いきや、突然、Мさんが吹き出した。しばらく一人で腹を抱えて笑っている。どうやらツボにハマったらしい。皆、驚いてレッスンが中断した。

「……すみせん。ふっ、ふー。ふー……。いや、本当におもしろくて……ふっ……」

 その後も彼女は、私が冗談を言ったり、ふざけてみたりすれば、一人で必死に笑いを堪えていた。笑いのツボが他人と違うようである。私はその様子がおもしろくて、どんどん調子づいてギャグを披露してみせた。彼女はことごとく笑ってくれた。

「みつるくんって、学校で人気者でしょ? めっちゃおもしろいもん」

 帰り際にMさんが笑いながら話しかけてきた。私に心を開いてくれたようである。本当は学校では友達が殆どおらず、孤独に過ごしているだなんて口が裂けても言えなかった。
 Mさんと連絡先を交換すると、毎日のようにメールが来るようになった。それも、授業中に来ることが多かった。

「みつるくんは授業中? 私は今起きたよ。ああ眠い。珈琲でも淹れようかな」
「何の授業やってんの? 大変だねえ。私も原稿描かないとまずい。みつるくん、応援の言葉をプリーズ!」

 恋人かよ! とツッコミを入れたくなるような、どうでもいいことが殆どで、でもそれが嬉しかった。
 やり取りをする中でMさんはコスプレが趣味だということを知った。その意外すぎる趣味に興味が湧いた私は、「それなら、コスプレの写メを送ってください」と冗談で言ったら、あっさりと断られた。

 当時交際していた恋人Rに、Mさんと連絡を取り合っていることを黙っていた。彼女が知ったら、変な誤解を生むかもしれない、嫉妬なんてされたりしたら面倒だ、と思っていたからである。だが、隠しているのも後ろめたさがあり、デートのときに何気なくМさんのことを話してみることにした。すると、「えっ! まじで!? 嘘でしょ?」と、ひどく驚かれた。Rや彼女の友人たちも、Mさんの大ファンなのだと言う。
 それからRは、「Mさんに会わせてほしい」と瞳を輝かせながら懇願してきた。渋々とMさんにそのことを伝えると、彼女は歓迎してくれた。

 後日、私たちはボイトレ教室の近くにある飲食店で待ち合わせした。そこで私とRは、Мさんに似顔絵を描いてもらうことになった。Rは夢見心地といった様子で、珍しく緊張して言葉が出てこないようであった。レッスンのときと雰囲気の違う私に、Мさんは口元がにやにやしてしまうのを抑えているのがわかった。
 帰り道、「これはもう、一生の宝物! 私、友達に自慢する!」とRは喜び、駅に向かう足取りが軽やかだった。

 Mさんはたったの三カ月でボイトレ教室を辞めることになった。本業が忙しくて、やはり時間がないらしい。皆にはそう説明していた。が、私にはこっそりと「実は、次は空手がやりたくて……」と漏らしていた。
 彼女が教室を辞めてから、徐々にメールの頻度は減った。私も彼女にメールを送ってまで話すような出来事が特になかった。

 だが、月日は流れ、久しぶりにMさんにメールを送ることになった。あの似顔絵を描いてもらったRと別れることになったのだ。
 そのことをMさんにメールで報告すると、すぐに返事は来なかったが、深夜の寝ているときに彼女から返信が来た。眠い目をこすり、携帯電話を見る。

「また素敵な出会いがあるさ! 元気出して!」

 チャイナドレスを着た、彼女のコスプレ姿の写メが添えてあった。


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